しんごう

 それは、明らかに奇妙だった。

「・・・ここ、だよね?」

 扉がある。

 それは別段おかしいことではないだろう。建物だから、入り口の一つや二つあっておかしくない。むしろ、ない方が問題になるはずだ。そのうちの一つがドアでも引き戸でもなく観音開きになる扉であっても、不思議なことはない。

 だがしかし。そこに信号がついているとなれば、話は別だ。

「えーと。・・・赤ってことは、今は入っちゃいけないのかな?」

 あか、き、あおと並んだ三色信号を前に、なゆなはいくらか困惑気味に首を傾げた。

 肩から、くたびれた生成りの布のかばんを斜めにかけている。こざっぱりとしたズボンとシャツに、適当に切っただけの短めの髪。年齢よりも幼く見られる外見をしている。小柄な方だ。

 そんななゆなは、唐突に開けられた扉に、額を打ち付けて、軽く後ろへ飛ばされた。

「あうう〜?」

「ああ、こりゃ悪いな、嬢ちゃん。大丈夫か?」

 顔を上げると、屋根の上から姿を見せた太陽に逆光になった状態で、片眼がつぶれ、頬に深い傷のあるいかつい男が覗き込んでいた。小さな子が見れば、泣き出しそうな顔。しかも逆光だ。

 しかしなゆなは、転んで座り込んだまま、心配そうに男を見上げた。

「あの、私よりその傷・・・」

 男は、呆気に取られた。こんな反応ははじめてだ。

「血は出てないみたいだけど、まだちゃんとふさがってないんじゃないですか? 中で治療、受けてたんじゃ・・・」

「ハンさん! 何考えてるんですか、いい大人が。ここでしっかり治しておかないとどうなっても知らないって何回言えばわかるんです。もう一つの目も潰したいんですか。ほらもう、外にまで出て。見つかったら厄介なことに・・・あれ、君は?」

 男をハンと呼び、筋肉のついた腕を掴んだ青年は、長々と喋ってからようやく、なゆなの存在に気付いたようだった。なゆなが、慌てて立ち上がる。

「私! ゆなさんから紹介受けて来ました、なゆなです。お手伝いに来ました!」



 建物の中に入ってみると、内部は比較的普通だった。

 飽くまで、「比較的」ではあるが。

「あーのー・・・」

「何? あ、そこの取って」

「はい」

「ついでに、この人の傷の消毒してやって。さすがに今度は逃げませんよね、ハンさん?」

 何をどう使うのかよく判らない器具の中から、見慣れて・・・はいないが、どうにかそれと判別できる消毒液と脱脂綿を取って、なゆなはハンに近づいた。反射的に身を引いたいかつい男に、少女は笑いかけた。

「我慢、できますよね?」

「・・・・腹ァ、括るよ」

「そうしてください」

 にこりと笑って、なゆなは消毒を始めた。

 それを見て、器具を揃えていた青年が意地悪く笑う。さっきは、消毒液を含ませた脱脂綿を近付けた途端に、怖い顔を引きつらせて逃げたというのに。

 これはいい切り札を得たとばかりに、青年はさくさくと手当を始めたのだった。 

 それが終わると、じゃあまた抜糸しますから、それまで安静にしててくださいね。消毒には毎日来てください。と、青年が至って平和的に男を送りだし、男は、嬢ちゃんの顔見に、来てやるよ、と出て行った。

 そうして、青年は隣で男を見送っていたなゆなに、にっこりと笑いかけた。

「いやあ、随分と素直な子を寄越してくれたもんだね、あの人も。今度お礼を言わなくちゃな。それで、えーっと・・・」

「なゆな、です」

「そう、なゆなちゃん。家はどこ?」

「いえ、あの・・・泊まり込み、なんですけど」

「え?」

 申し訳なさそうに言うと、青年は一瞬硬直して、溜息をついた。

「前言撤回だ。礼なんてしてやるか」

「あのっ」

 慌てて、青年を見る。ここを出されると、行くところがないのだ。そうすれば、また、ただの家無しに、生きるためなら何だってするような家無しに戻ってしまう。

 必死な様子を見て取ったのか、青年は、いくらか穏やかな顔を向けた。

「僕のことはどのくらい聞いてる?」

「非合法の医者で、いけすかないけどいい奴だって聞きました」

「君・・・馬鹿だねえ」

 え、と驚いて言葉のないなゆなをよそに、青年はついておいでと言って、家の中に引き返した。なゆなを椅子に座らせて、自分もその向かいに座る。

「いけ好かないっていうのは、あの人なら言いそうだ。でも、君がそれを本人の前で言う必要はないんだよ」 

「あ・・・」

「愚直というのはこういう人物を言うのかと思ったね」

 すっかり落ち込んでしまったなゆなを見て、青年は、不意に微笑した。

「それで、君は? ここで働きたい?」

「え・・・はい!」

「非合法だから、おかしな奴や暴力を振るう奴も多い。それでも?」

「はい!」

「別の仕事を紹介することも出来るんだよ? もっと、まともなやつを」

 思いがけない言葉に、なゆなはしばし呆然とした。ここが最後の砦ではないのだと、この青年は言ったのだ。

「案外、あの人もそういうつもりで君をここに来させたのかもしれないね。こんなことやってるから、顔だけは広いんだよ。希望はあるかい?」

 でも――と、なゆなは思った。ちらりと、散らかり放題の部屋を見る。そして、なゆなの言葉を待っている、若い非合法医師を。――この人は、それで良いんだろうか。

 喜んで、くれたような気がしたのに。

「あの」

「なんだい?」

「・・・ここがいい、って言ったら・・・迷惑ですか?」

 青年は、驚いた顔をして、今度は心底、笑ったようだった。手を伸ばして、なゆなの頭を軽く撫でる。

「本当に、馬鹿だね。君は」

 そう言って、ぽんぽんとなゆなの頭を叩く。

「上に二部屋空いてるから、どっちでも好きに使って良いよ。手伝いをしてくれるなら、薬品や器具の名前と使い方も覚えてもらう。いいね?」

「――はい!」

 にこりと、笑う青年が嬉しかった。

 そうして、勢いで立ち上がってから、ふと周囲を見渡す。

「あの・・・先生、」

「待った。名前の方が好きなんだ。ソウってよんでくれないか?」

「はい。ソウ・・・さん。部屋の掃除とかも、して良いですか?」

「大歓迎」

 良かったと胸を撫で下ろして、椅子に座り直す。そうして、もう一度顔を上げた。

「あの、もう一つ」

「何?」

「入り口の信号、何なんですか? 赤は入るなってこととか?」

 少し考えるような顔をしてから、青年は、ああ、と大きく肯いた。

「あれか。そうか、そういう使い方もあるな」

「え?」

「いや、ただの飾りだったんだけどね。それ、いいね」

 にっこりと。青年は微笑むのだった。



 ――こうして、なゆなの新しい生活は始まった。 

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