電話が鳴った。
普段あまり鳴らないせいで、びくりと飛び上がった後、数瞬、睨みつけてしまった。留守番電話機能だけが辛うじてついている程度の、古い型だ。ちなみに、携帯電話は持っていない。
そう言えば、先輩がナンバーディスプレイ対応のやつをやろうかと言ってくれていたなと、不意に思い出す。この電話ももらいもの――と言うか、前の住人の遺物なのだけど。
時計を見ると夜の十二時丁度で、まさか今時分にセールスもないだろう。飲み会で酔った誰かがかけて来たのか。
「――もしもし?」
『あ、もしもし? 俺おれ、判る?』
「詐欺なら他を当たれ」
まだ妻子もなく、親兄弟どころか親戚さえ不明の俺には、引っかかりようがない。というか時間を考えろ。当人が家にいる可能性が高くないか?
切ろうとすると、待てよ待て待てッ、と、慌てた声が叫んだ。口早に、次の台詞を押し込む。
『ツカザキっ、ツカザキユージっ! 高校一緒やったやろッ!』
「…ツカザキ?」
ああ、あの。
「厚顔無恥で礼儀も礼節も知らないあのユージか」
『相変わらず口悪いのな、お前。で、コーガンムチってナニ?』
あっけらかんと言い放つ。半年くらいでは、あのお祭り男の顔は忘れられなかった。声までは自信がないが、なるほど、あの男なら非常識が常識だ。
そこでふと、気付く。
「番号、教えてたか?」
『そこはまあ、あれや。俺のグローバルネットワーク』
「謎のツテな」
『秘密の組織っぽいやろ? 秘密チョーホーインぽいやろ?』
「ああ、最終回でアジト爆発させられる奴らな」
『キブツハソンはあかんぞ。ってか、それ悪役やん』
「阿呆話するなら切るぞ」
わあ待て待て、と、電話の向こうで盛大に叫ぶ。どこからかけているかは知らないが、真夜中に、近所迷惑ではなかろうか。
仕切り直しを意図してか、咳払いをひとつ。
『いやな、ちょっと旅先で。そっち行こうかと思っとんやけど、泊めてくれへん?』
「はあ?」
『もう、すぐそこやねんて』
そう言って、最寄り駅の名前を挙げた。歩いて十分ほどの距離だが、今こちらに向かっているという。
「阿呆か。そんなに急に来て、俺が外出してたらどうするつもりや」
『でもおるやん、現に、今。なあ、いーやん一晩くらい、布団に寝かせーとか言わんから』
ユージらしい、と思いながら、わざと返事を渋ってみる。こいつには恩に着せるぐらいがちょうどいい、というのは通説だった。
「駅前なら、ネットカフェとか漫画喫茶もあるぞ。今の季節、野宿しても風邪も引かないだろうし」
『人でなしー! ほんまもう、着くんやって。泊めてーな』
「そんな、着くって」
全力疾走でもすればどうか知れないが、そんな様子はなかった。時間的に無理だろう、と言いかけて、足音に気付いた。アパートの階段を、上ってくる軋み。
隣人でも帰ってきたんだ、と思おうとして、二階は帰省やら出張やらで、今日は誰もいないことを思い出した。
いや、だからといって。
『なあ、泊めるのあかんならとりあえず入れて? せっかく来たんやから、顔くらい合わせよーな』
電話の向こうから聞こえる声が、違った方向からも聞こえる。
入り口近くに、誰かの立つ気配。
『開けてくれへん?』
図々しいあいつが、何故、鍵がかかっているかどうかも確認せず、電話越しに訊く?
――その瞬間に、ざぁと鳥肌がたった。
『なあ、開けてくれよ。なあ? なあ――開けろ言うてるやろ』
「…っ、帰って、くれ…」
どうにか声を絞り出すと、長い沈黙が落ちた。長い長い沈黙の後で、ぷつりと回線が切れる。
そして。
『ちぇっ、ばれちゃった』
甲高い、少年のような声。回線の切れた受話器から、聞こえた声。それは、まるきり無邪気だった。
その後、あいつとは会っていない。
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