もくじ




ささのはさらさら

2011/7/8

「だからよー、ほら、節句ってわかるか? 一月一日とか三月三日とか五月五日、七月七日、九月九日。屠蘇に白酒、菖蒲酒、菊酒。それなら七夕にだって酒が絡んでなきゃ嘘だろ?」
「なるほど、それがうちの庭に侵入して竹を切り倒した理由か」
 怪しい言動以外には、上機嫌なところと匂いしか酔っているとわからない男は、けらけら笑いながら切り倒したばかりの竹のコップを手に掲げる。
 一度、不法侵入で警察に突き出してもいいんじゃないかと本気で思う。度々。
 一軒家、しかも周囲には騒いでも苦情の来るような民家がない我が家は、大学生という無責任な時代から友人やよく知らないのやの溜まり場になった。それは、古いがそれなりに立派な一軒家に一人暮らしだからだろう。
 しかし、無茶は学生時代限りにしてほしいものだ、とも思う。
「お前なあ、せめて昼間に俺に一言いってからやれ。しかも、ひときわ太いのを切り倒すな、下手したら家が潰れるだろこれ。…よく一人で切り倒せたな」
「だっろー?」
「褒めてねえ」
 自ら脱線したものの、さてどうやったら説教を言い聞かせられるのか、と悩んだ隙に、男はにんまりと笑って、切り落とした竹のコップに透明な液体を注いだ。二人分。
「美味いぞ」
「…せめて洗えよ、粉吹いてんじゃねえか」
「だーいじょぶだって、そのくらい」
 何を根拠に、と思いつつ、ついつい手は伸びる。
 手に持った竹はつややかで、太いと思っていたが、手に持つと案外しっくりと収まる。節に指を引っ掛けながら、覗き込む。さっきから周囲に広がっていた青い匂いが強くなる。
 竹の匂いと、酒の匂いが混じり合う。
 口に含むと、アルコールが強いのはわかるのにほのかに甘く、そのままするりと喉に流れ込む。
「美味いだろ」
「…ああ」
 認めるのは悔しいが、酒にも、勝手に切り倒されてしまった竹にも、何ら罪はない。
 そうやって無言で、互いに注ぎ合いながら飲み進む。この季節でも夜中は結構涼しいものだと、今更に気付いた。日中は雨が降っていたから、そのおかげなのかもしれない。
 ぽつりと声が落とされたのは、三本目があけられてからのことだった。
「ごめんなー。迷惑かなって、俺もちょっとは考えたんだけどよ」
「考えついたならそこで止まれ」
「んー。いやだってついさあ、思い出したんだよなあ。俺、大学六年行ってさあ、毎日馬鹿ばっかやって、ろくでもないしくだらないし、でも、楽しかったなあ、って」
 この男と知り合ったのは、きっと、知り合いの知りあいだとか、とにかく溜まり場と化したこの家にひょいとやって来てのことだったはずだ。
 本当に、馬鹿ばかりだったあの頃に。
「思い出した」
「ん?」
「お前、前にも竹切り倒しただろ。流しそうめんやるんだっつって、大騒ぎして、結局、節が上手く削れなくってちゃんと流れなくて」
「そんなこともあったかもなあ」
「あったんだよ。ああこいつら馬鹿だなあ、って思った。俺もだけど。…でも、ちょっと楽しかった」
「…だよなー」
 声を立てずに笑う。
 実際、悔しいが、楽しかった。時間を置いて振り返れば振り返るほどに。記憶の中で風化されているのだとわかっても、まったく褪せてくれない。
 戻りたいと思った。不意に。だが、戻れないことも、本当に戻ってしまったらこんなはずじゃなかった、と思うだろうことも、わかる。
「酒、美味いな」
「…だろ」
 一体何をやってるのやらと思いながらも、夜空を見上げて竹を切り落とした器で酒を傾ける。困ったことに、厭ではない。
 懐かしい、戻れやしないあの頃のように。
「あ」
 出し抜けに、男が素っ頓狂な声を上げた。見れば、目は夜空の星に釘付けになっている。
「七夕か!」
「それがどうかしたか?」 
「うわー…なんだってそんな日にヤローと二人で…」
「…お前が言うか、それ」
 つい、酒を頭からかけてやろうかと思った。しかし、酒に罪はない。

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夢渡り

2004/4/7

「えーっと、にひゃくじゅうごばん二百十五番ニヒャク…あった!」
 チョコレート色をした大きな扉の前で、ゆるくウェーブがかった髪を二つに分けて括っているゆなは立ち止まった。
「ここを抜ければ――…えっと。どこに出るんだったかな?」
「馬鹿かお前。それでよく試験受かったな? 試験監督員と採点者がどうかしてたんじゃないのか?」
 ゆなは、傍らに立った茶褐色の髪に適度にだぼだぼの服を着たりくとを恨みがましく睨みつけた。  
「むう。そんなこと言うならりくとは、わかってるんだよね?」
「当たり前だろ。その扉の向こうは、霞ヶ峰だろ」
「………はあ」
 りくとの頭の上に収まっていた瑠璃色の小鳥のクキノハが溜息をつく。人間と同じ手があったならば、それでなくとも翼がそう動かせるのであれば、額を押さえたことだろう。
「な、なんだよ?!」
「違うの!?」
 りくとはいささかたじろいで、ゆなは嬉しそうに言葉を弾ませる。
 しかしクキノハは、憂鬱そうに首を振るのだった。
「正確には、霞ヶ峰の住人達の夢の中、です」
「…ちょっとの差じゃん」
「どこがちょっと? りくとこそ、よくそれで試験受かったよね? 現実と夢は違うし、その上でも個人の夢と複数人の夢は全然違うじゃない!」
「う、うるせーな、わかってるよっ、ちょっと言い間違えただけだって!」
「うそだー。絶対うそだー!」
「なんだと?!」
「何よ?」
 ここぞとばかりにからかい出すゆなに、容易くその挑発にのるりくと。クキノハは、いよいよ深い溜息をついて…半ばうめいた。
「いい加減にしなさい。そんなことだから、二人一組などという扱いを受けるんですよ。二人とも、人手が足りないからこその採用だということをよく肝に銘じておくように」
「…は―い」
 とりあえずはしおらしく頷く子ども達に、やはりりくとの頭上で、クキノハは深い深い溜息をつくのだった。
 そもそも、この若い――というよりも幼い二人の採否を決めたとき、真っ先に反対したのはクキノハだった。
 いくら人手が足りず、見所のある才覚があるとはいえ、まだ子供の二人を現場に置くのは不安だし、何より、上手く伸ばせば稀代の「夢渡り」になるかも知れない才能を潰すことになりかねない、と。 
 そして、採用が決定されると一番に、二人まとめての補佐に回りたいと申し出たのもクキノハだった。差し出た真似を、との反発も多かったが、クキノハにはそれに見合うだけの実績と経験があった。結果、希望は通った。
 そして今に至る。
「それでは、準備はいいですか? ゆなとりくとは、しっかりと手を繋ぐように。なるべく離さないように、もし離したら…どうすればいいのかわかってますか、ゆな」
「はい。制服と、特にこの指輪。これでつながってるから、落ち着いて居場所を探ります」
「そうです。その際、落ち着いていることが肝要ですよ。繋がりは強いのだから、そう見失うことはありません。では、病巣を見つけた場合はどうするか。りくと、わかっていますね?」
「薄刃を使って速やかに切り離すこと。切り離したら、俺たちは速やかに防壁を張る。クキノハがいいって言うまでは、絶対に防壁を崩さない。あってるだろ?」
「その通り。病巣の処理は私に任せてください。それと…」
「えー、まだやるんですかー?」
「ちゃんとわかってるよ。全部おさらいしてたら、夜が明けたって終わらないぜ?」
 二人揃っての声に、クキノハは苦笑した。その通りだ。いい加減なところはあるものの、実のところ、この二人は優秀なのだ。二人一組で互いの欠点を補ってこそ、という但し書きが付はするものの、能力だけならば随一とも言えるかもしれない。
 しかし、いまだ経験も思慮も浅い。
 信頼はしているが、つい事細かに審査しようとしてしまうのは、心配性ゆえか、教師としてこの二人に付き添うことが長かったからか。
「そうですね。では、行きましょうか」

 扉を開く瞬間は、いつも緊張する。そして物凄く、わくわくする。
 例えばそれは、中身の判らない箱を開けるのに似ているのかもしれない。中身は何か。爆弾かもしれない。宝物かもしれない。ネズミや、もっと得体の知れない生物が潜んでいるかもしれない。探していたものが入っているかもしれない。
 夢を渡る扉を開くときは、だから、とても緊張してわくわくする。

「今回も順調だったねー」
「そうだな。これは…」
 次に続く言葉を予測して、クキノハは軽く眼を閉じた。
「「そろそろ一人でも」」
「却下」
 えー、それぞれ不満げに声をあげるのを無視して、クキノハは片羽でりくとの頭を叩いた。
「報告に行きますよ。ほら、早く」
 促され、いまだ不満を引き摺ったままではあるものの、りくとと、それに並んでゆなが歩き出す。クキノハは変わらず、りくとの頭上に収まっている。
 クキノハたち、夢見鳥は夢の中でこそ自由な形をとれ、自在に飛びまわることも叶う。現実では、羽は飾りばかりの飛べない鳥だ。
 何故こんな特殊な種が存在するのかは、わからない。
 しかしそれは、全ての生き物にも言えることではあるのだろう。全てを知る者が、果たしているか否か。――地上に知る者はない。
「…ねえ、先生」
 ゆなは、りくとの頭上辺りを見上げはしたものの、クキノハからはわずかに目を逸らした。
「私たちが二人一組なのは、未熟者だから? …そんなに、役に立たない?」
「ゆな? 何言ってんだよ、お前」
「だって、そうでしょ。他に夢渡りを二人とかでやってる人なんていないよ。ヒトとトリっていう一対一の組み合わせが原則でしょ? それに先生、私たちが実地で出るのに凄く反対してたって言うもん。だから…」
 真剣なふうなゆなに、りくとも黙り込んだ。
 一方クキノハは、目を見張った。そういったことを気にしているとは思ってもみなかったのだ。
「ゆなは、夢渡りは嫌いですか?」
「ううん。わくわくして、面白いです。嫌いだったら、気にしないでやめてます」
 素直すぎる言葉に、りくとがやや呆れ気味な視線を向け、クキノハが思わず苦笑する。
「な、なによ…」
「いや。なんて言うか、お前は悩みがなさそうでいいな―と思って」
「悩んでるからこんなこと言ってるんじゃない! りくとのばかっ!!」
「あ、そういやそうか。うんうん、少しは考えてるんだな。悪い悪い」
「って、全然悪いとおもってないでしょーっ!」
 いつの間にか普段の調子に戻っている二人に、クキノハは苦笑した。
 この二人は、未熟だがその分、未来がある。そう思えてならない。 
「ゆな」
「はい!」
「あなたはまだまだ未熟ですが、役に立たないということはありませんよ。りくとと組ませているのは、その方が向いているからです」
「じゃあ私、やめなくていいんですか?」
 弾むような明るい声に、微苦笑する。
「そこまで考えてたんですか?」
「う。いや、だって…ただのお荷物なら、やだなあって…」
「短絡的」
「っ、りくとのばかーっ!」
 声が、夢を開く扉の居並ぶ空間に響き渡る。たまたま居合せた他の「夢渡り」たちが、ぎょっとしたようにこちらを見ている。
 それを面白く思いながらも、早く報告に行かないと色々と困るのだけどなと、密かに溜息をつくクキノハだった。

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夜のマント

2005/12/30

 図書室に本を借りに来た行柾は、例によって人の少ないテーブル席に、黒い物体が置かれていることに首を傾げた。
「布…?」
 近付いて、持ち上げてみる。驚くほどに軽い布だが、他にカバンがあるでも筆箱が置かれているでもなく、落としものだろうか、それとも暗幕…にしては小さいなと、いよいよ以って疑問が膨らむ。
 広げてみようかとしたとき、あっ、と、声がした。
「ごめん、それ僕の!」
「えーっと、五組の壱原?」
 行柾が記憶を発掘している間に、眼鏡をかけた線の細い同級生は、駆け込むように近付いて、黒い布を取り上げた。
 むっとする。
「勝手に触ったのは悪かったかもしれないけど、大事ならこんなところに置いとくなよ」
「あ。ごめん、そうじゃなくて…」
「何だよ」
「その…。いや、いいよ。態度悪くてごめん、見つけてくれてありがとう」
 言いかけてやめるなと、友人であれば襟首を掴んでいるところだ。しかし壱原は、選択授業で一緒になるから、どうにか顔と名前が一致するくらいで、喋るのは今日が初めてに近い。行柾は、肩をすくめると、背を向けた。
 用事があるのは、閲覧室ではなく書架だ。
 壱原が、申し訳なさそうに見つめているのは気付いていたが、そのまま無視をした。

 そんなことがあった、数日後の放課後だった。

 試験休みで部活もなく、行柾は、まだ明るいうちに家路をたどっていた。早く帰ったところで勉強をするとは思えないのだが、かといって、遊びに出掛けようとも思わない。
 家まで五分とかからない児童公園で足を止めたのは、何かを見たような気がしたからだった。それが何だったのか判らず、行きすぎた体を戻して覗き込むと、カラフルに塗りたくられたベンチに、老人と壱原が座っていた。
「…何やってんだ?」
 思わず呟きが漏れたのは、壱原が、あのときの黒布を纏っていたからだった。まるでマントのように、オペラ座の怪人や、怪傑ゾロのように。少年は、こちらには気付いていないようだった。
 よく見ると、眼鏡をかけていない。それに、いつもはうっとうしげにかかっている前髪を、整髪料ででも固めているのか、額を出すように分けている。それだけでがらりと印象は変わり、よく一瞬で判ったなと、行柾は、己に妙な感心をした。
 壱原は、老人に微笑みかけると、ふわりと布を持ち上げ、抱くようにして覆った。
「ドラキュラかよ。おい、壱原」
 何やってんだ、と続けようとした言葉が、艶然とみつめられ、喉に引っかかる。待てあれは男だろう、と、自分の一端が悲鳴を上げる。 
 しかしそれも一瞬で、壱原は、青ざめるようにして表情を強張らせた。そうすると、いくらかは線が細いが、ただの同級生だ。はっとしたように、老人がいるだろう場所を見つめ、黒布を振り上げ、ひとまとめにしてそれを抱えて走り出した。
「え」
 呆然とそれを見送ってしまい、反対側の入り口から逃げられる。
 しばらくして、我に返ってから公園に踏み入ると、ベンチの老人は、幸福そうに目を閉じている。小春日和であれば、昼下がりの居眠りで、ほほえましい情景だ。だが今日は、薄明るくはあるが曇り空で、風は冷たい。
「おい、じいさん。こんなとこで寝てたら風邪ひくそ。じいさん?」
 壱原が何をしていたのか聞きたいということもあるが、やはり体調が心配になり、声をかけても反応のない老人を多少強く揺さぶるが、全く起きる気配が無い。どうしたものかと更に揺さぶると、そのまま横にこけてしまった。
 腕を掴んでいたからいくらかは緩和したが、それでも衝撃があったはずなのに、ぴくりともしない。
 恐る恐る脈をみてみるが、そもそもうまく取れたためしがないため、反応はないのだが、よくわからない。そこで思いついて胸に耳をあてると、何の音もしなかった。

「壱原」
 うっとうしく長い前髪をたらした少年は、びくりと怯えたように、眼鏡の向こうから視線を寄越した。
 他のクラスメイトたちは、朝の始業前とあって、特に注目するでもない。行柾は、壱原の細い腕を取ると、教室から連れ出した。
「昨日のあれ、説明してもらうからな」
 少年から、応えはなかった。だが、抵抗するでもなくついてくる。
 そして二人は、屋上前の踊り場にやってきた。屋上には、残念ながら、鍵がかかっていて出られない。
「で」
 逃げられないように、壱原を屋上に出る扉に背を向けて座らせ、その上、腕も掴んだままだ。
 少年は、うつむいたまま顔を上げようとはしない。
「…信じてもらえないと思うよ」
 ようやく放たれた声は意外にはっきりとしていて、行柾は、おやと思った。
「そんなもん、聞いてからの話だ。とにかく、話せよ。お前のおかげで俺は昨日、警察に話聞かれたんだからな」
「だけど…自然死、だったでしょう?」
「なんで知ってんだよ」
 やはり知っていたのかと、根拠もなく思い、行柾は少年をにらみつけた。
 壱原は、溜息をつくと、顔を上げた。次いで、学ランの胸ポケットから、するりと黒い布を取り出した。結構な大きさのはずだが、学ランの胸が膨らんでいた様子もなかった。
「夜のマント、っていう児童書を知ってる?」
「夜のマント?」
 壱原は、取り出した布を羽織るようにすると、口元に、どこか皮肉めいた微笑を浮かべた。
「黒いマントの出てくる話だよ。それは、本来眠りを持たない神々にさえ眠りをもたらし、人の子には、深い眠りか永久の眠りを与える。それを盗み出してしまった子供の冒険を描いたのが、『夜のマント』だよ」
「ああ、それなら読んだような。最後には、ぐっすり眠れるって勘違いした少年が、居眠りしていた長老にマントをかけるんだったっけ?」
「そう。『そうして長老は、二度と目覚めることはありませんでした。しかし少年は、そんなことも知らずに、長老が起きて、彼の冒険を聞いてくれるのを心待ちにしていたのでした』」
 長老が目を覚まさなかったのは、残りの命の少ないものは、そのまま永久の眠りについてしまうという、マントのせいだった。
 凄い終わり方だなと思ってから、壱原の纏う布に目を止めた。
 何故、この話を持ち出した。
「そう。これが、夜のマント。今では変質して、自ら眠りを求めるようになってしまったけれど。君は、危なかったよ。これを被っていたら、目覚めないところだった」
「何故――」
「眠りを集めて、戻さなくてはならないんだよ。僕の先祖が、これを盗み出してしまったのだから」
 やはり微笑んで、壱原は、壁に手をつくと、ひらりと行柾を飛び越えた。予鈴の鐘が、聞こえた。
「信じるも信じないも、君次第だ。ただ、他の人に言ったところで、信じてもらえるとは思わないよ」
 行柾は、それを呆然と見送ってしまい、うっかりと授業に遅刻してしまった。

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追憶のなかの檻

2018/5/10
 

 至近距離に突き付けられた拳銃をちらりと見て、膝に乗せたノートブックに視線を戻した。
 指先は、男が挨拶もなしに部屋に入ってくる前からとりかかっている作業のために、一度も止めていない。そのせいか、男の顔が忌々しげに歪む。
「やめろ」
 キーボードが浅いのでそれほど音は出ないはずだが、その小さな音にも、繊細に男の眉が跳ね上がる。
「やめろ!」
 手が振り上げられたので、ため息をついて作業を一時保存する。ノートブックを払い落されたりしたら、うっかりデータが飛びかねない。一応ある程度の防止措置はしているが、万が一ということがある。
「何の用?」
「…お前にネズミの疑いがかかっている」
 ネズミ=潜伏捜査官、他家のスパイ、裏切者。十把一からげにした呼び名は、どれであっても末路は悲惨なものなのだと、取るに足りない命なのだと印象付けたいためのものだ。
 ネズミに失礼な話だ。
 ため息とともに、作業を再開させた。
「お前…自分の立場が、わかっているのか」
「わかってるつもりだよ。どっかの警察だか犯罪組織だかからの潜伏者じゃないかって疑われたんでしょ。さっきあんたが言ったじゃない」
「手を止めろ!」
「断る。最後の仕事なら余計に、きっちり終わらせたい」
 再度男に目をやると、こちらを厳しく睨みつけながらも、そこに戸惑いのようなものが揺れたような気がした。
 ちなみに男は、所属する組織の同率ナンバーツーだったかスリーだったか、もう少し下の方だったか。そこそこ顔は見かけるが、何分こちらに興味がないもので、名前もよく覚えていない。
 というか多分、名前を聞けば組織での立ち位置も棲家も家族構成も判るが、顔と名前が結びつかない。結ぶ気があまりない。
「外に何か発信するのが不安なら、これでいい?」
 LANケーブルと、多分区別がつかないだろうから、電源のケーブルも引っこ抜く。マウスは元からつないでいないから、ある種、これがノートブック本来の姿と言えるだろう。つるんとした黒い箱。
 男の気配は苛立たしげなまま変わらない。後は少しばかり、焦りのようなもの。
「あと数分はかかるかな。そのくらい待つ時間もない? そもそも、何と疑われてるの?」
「…密告屋だ」
「わーそれはまた節操のない」
 内通者でも密告者でもなく、密告屋。つまりは、高く買ってくれるところに情報を流していたということで、、動機の有力候補は金だろう。
 とりあえず食べたいものが食べられるならそれ以上に金があろうがなかろうがさほど意味はないと思うのだが、それほど支持を得られる意見ではないということも知っている。
「で?」
 目を向けると、男は、盛大に顔をしかめながらも困惑していた。仕方がないので、言葉をつぐ。
「まず尋問? とっとと始末? 尋問されても何も出ないから時間の無駄だし、痛いのは嫌いだから後者の方がありがたいけど」
 男の困惑が深まり、キーボードを叩く手は緩めないものの、面倒だなとため息が出そうになる。
 変に組織の中の一匹狼だとかの噂が拡がるくらいなら、色々と正確に流布させておいてほしいものだ。手間ばかりがかかって、益がない。
「疑いがかけられた時点で結構な率でアウトってのはジョーシキでしょ。魔女裁判の域だね。重しをつけて川に流して、浮かんだから魔女だから殺せ、溺れ死んだら人でした。どっちも死ぬのは確定。そうならないために必要なのはそもそも疑いをかけられないように、かけられても浅いところで立ち消えるように、うまく立ち回ることと勢力を張り巡らせておくこと。残念ながら俺にはどっちもないから、疑いが強くなった時点で魔女の行く末しか残ってない」
 狙ったように、言葉の最後と作業の終了が重なった。整理したデータを、エンターキーで送り出す。
 やや強く叩いたための打鍵音に、男は、我に返ったように身じろぎした。
「死にたいのか…?」
「別に」
「……は?」
「どうしてだか手元にドミノがあって、暇だしなんとなく並べ始めたとするでしょう。並べる作業が好きだとか最後に倒して爽快感を味わいたいとか、そういうわけでもなくなんとなく。完成させなくてもいいんだけど、横から誰かに手を出されて奪い取られるのも、倒されるのも、ちょっとなあ。まあそうなったらなったで別にいいけど。って、そういう感じなんだよね、俺にとっての人生って」
 とりあえず生きていて、死ぬだけの踏ん切りがないならそれなりにより良くは過ごしたいけど、無理ならまあいいか、というこれも、あまり支持を得られない。支持はしてくれなくても、そんな奴もいるんだなと理解してくれればありがたいのだが、それすら滅多にない。
 残念だし、面倒くさい。
「だから命乞いをする気はあんまりないんだけど――」
 目の前で、男の拳銃を持つ手がはじけ飛んだ。
「必要もなくなったかな」
 残念な腕の狙撃手は、細く開いた窓の隙間から拳銃だけを狙って撃ち落とすという芸当はできなかった。おかげで、部屋中に血が飛び散って。掃除をする方の身にもなってほしい。
「な…な、ぜ…」
 手首から先を失ってのたうち回っていた男は、土足で入って来た何人かに抱え上げられ、この世の終わりのようなかおをしながらもそれだけを呟き、こちらを見遣った。
 少しだけ気の毒になって、ノートブックを持ち上げて見せる。
「今は大体、ケーブルがなくたってつながるよ、ネット」
 無線LANは仕事関係ではあまり使わないようにしているだけで、実際には問題なく使える。
「生中継しておけば、もしもこれが単独行動なら何かしらの反応があるだろうし、ないならないで、まあ誰かの娯楽くらいにはなるかもしれないし」
 男の目的が抹殺だったのか、私的に使いたいための勧誘だったのか、その他の理由か。何であれ、興味も関係もない話だ。
 ぞろぞろと出て行った土足の闖入者たちを見送り、掃除を自分でやるか業者を呼ぶかと考えていると、ノートブックがメールの着信を告げた。差出人は、俺をこの組織に拾い上げた張本人。
 業者を呼ぶことに決めて、メールを開く前にたまに利用するリストから電話をかけた。

「うわー似合わない」
「呼び出しておいて失礼な奴だな」
「ここまでファーストフード店の似合わない人がいるなんて、毎度ながら吃驚する」
 手つかずのコーヒーの乗ったトレイの向かいに、ついでに食事を済まそうと一食分を乗せたトレイを合わせる。彼にはさんざん、人の食べ物ではないと言われるが、食べて腹を壊さないなら十分にごちそうだ。
 彼の柔和な視線はともかく、四方八方から突き刺さる視線が痛い。一般人のふりをするなら、その目力を緩和してほしい。こうも取り囲まれていなければならないのだから、長老は大変だ。
「アルトゥロの件では迷惑をかけたな」
 アルトゥロ。大体右腕的な立ち位置。…だった、男。なるほど、先日の襲撃未遂犯はそういう名前だったらしい。
「お前に頼んでいたリストのことを嗅ぎつけたようでな。お前を味方に――命を助けると見せて飼いたかったようだ」
「なんか勘違いされてるみたいだけど、俺が従順だとか忠犬だとかって噂、どこからどう伝播してるの?」
「お前の十八番だろう」
「いや…そこまで興味ない」
 では何に興味があるのかと問われれば困るところだが、そんなことを訊いてくるような相手ではない。
 それよりも、と、あっさりと話題を変えられる。襲撃の際、作業を行っていたデータの件だ。つまりは、あの男が手に入れたくて細工も多分したがっていた情報のこと。
 極力多くのデータを集め、ぶち込んで、どれだけどういった点で組織に有用か、というものを一覧化したものだ。
「アルトゥロの席には誰が相応しいと思う?」
「そういうのが面倒だからあれつくったんだけど」 
 有能さがほしいのか、忠実なのがいいのか、人望か。それぞれの基準でリストアップしてある。リアルタイムで更新されるようにしてあるので、好きな項目で選んで絞り込めばいい。そのデータの信憑性がどの程度かまでは、こちらの知ったことではない。
「あの中には、お前の名前もあったな」
「全構成員って言ったから」
「一応、我々の一員であるとの自覚はあるのか」
「引き入れたのは誰だったかな」
 あの日、彼に拾われていなければ野垂れ死んでいただろう。
 だから恩義を感じるというほどではないにしろ、何がしかの縁はあるのだろうと思う。
「そうだったな」
 ゆるりと笑い、彼は、遠くを見るような眼をした。ここではないどこかを、見るように。
「息子のように育てるつもりが、お前をこんな檻に閉じ込めてしまったな」
 彼の本当の息子は、ほとんど彼自身が自殺に追い込んだようなものだった。俺を拾った直前の出来事で、だからこそ彼は、妙な感傷を俺に重ねたのかもしれない。
 その息子には悪いが、おかげでこちらは得をした。
「偶然とはいえ、ありがたく転がり込んでるんだからいいよ。どちらかと言えば、折角閉じ込められてやってるんだから、ちゃんと頑丈さを維持してほしいな」
「わがままな囚人だ」
「そこはお互い様」 
 共犯者のように笑い合って、話はそこで終わった。
 彼は口をつけなかった安いコーヒーをそのまま残し、席を立つ。周りを囲む奴らは、それぞれ適当に時間を置いて後を追う。彼は何故か、俺と会う時だけはいつものようなわかりやすい護衛を避ける。
 そんなことを考えたせいか、直前の会話のせいか、なんとなく悪戯心が騒いだものか。立ち去ろうとする彼に、声をかけていた。
「たのむよ、父さん」 
「…ああ」

 彼と二度と会えなくなってから、あれは縁起でもない会話だったと思うことがある。彼と彼の息子は、互いに命を削り合ったのだから。 

    
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