「今日は嘘をつくぞ」
歯を磨いているときにそう宣告され、「はぁ?」と口の中だけで言った。呻いたような音が出る。
妙なところで稚気のある彼は、にこにこと、世界平和を祝うかのように笑った。緊張感を置き忘れてきた顔だと、いつも思う。
「だってほら、今日はエイプリルフールだろ?」
「・・・嘘をつかなきゃいけない日じゃないって、わかってる?」
「馬鹿にするな」
むっとした顔をする。とりあえず無視して、朝食をとることにした。
「嘘、ついた?」
「うん?」
レンタルショップで借りてきた映画のDVDディスクを取り出して、ふと思い出して訊いてみた。時計の針は、既に十二時を回っている。
彼は一瞬、思いだすように視線をさまよわせた。
そうして、破顔した。元々締まりのない顔をしてはいるのだが。
「ついたよ」
「え。どれ?」
「嘘つくって嘘ついただろ」
沈黙。
「・・・・・・じゃあ、それが嘘だったって言うの?」
「うん」
「嘘をつく」が嘘なら、やはり嘘をついているから本当のことになってしまうのではないだろうか。矛盾だ。
だが彼が、あまりに満足そうに笑うので、そう告げるのはやめることにした。
もう日付も超えてしまっていることだし、大人しく寝よう。
時々、酷く焦燥感に駆られる。
平穏で、平凡だが幸せな日々。特別楽しいことがなくとも、小さな幸せはたくさんあり、穏やかに流れる、そんな毎日。
そこに、私がいていいはずがないと、こんなにも幸せではいけないのだと、そう、思ってしまう。
――私は、妹を殺したのだから。この手で、確かに――
「兄さん、どうなさったの。眉間にしわが。考え事?」
ふうと、暗い闇から引き戻された。目の前では、連れ添って十年以上になる妻が、心配そうに見つめている。そういえば、夕飯の途中だった。
「兄さん、だなんて」
「あら。昼間に、アルバムの整理をしていたせいね」
私が笑ったからか、妻も笑い返した。
そう。私に、妹はいない。あえて「兄」と呼ぶ者があるとすれば、それは、従妹の妻くらいのものだ。
「懐かしいわね」
遠くを見つめるように、笑う。
その顔を見ながら、思うのだ。この罪悪感は――もしかすると、未来からの警告だろうか、と。私は、いつか妻を、この手で――。
何も知らず、彼女は、私の前で微笑んでいた。
迎え火も送り火も、一体何時どうやって焚けばいいのか知らない。仏壇には、何を何時備えればいいのか。あの鳴らすやつは、何と呼べばいいのか。
何も知らないままに、僕らは盆を迎えた。
「ある地域ではね、引っ越したりすると、はじめてのお盆のときには、前の家から新しい家まで、迎え火を持って歩くそうよ。そうやって、案内するんですって」
「へぇ。でもまあ、僕らは、ずっとここだし」
「まあ、そうだけど」
苦笑めいた反応に、うっかりと勢い付いてしまう。
「大体、冠婚葬祭はどれを取っても、生きてる人のためのものなんだよ。葬式だって、極論を言えば残された側の自己満足でしかない。だから、重荷になったり義務だと思う時点で、何か間違ってるんだよ」
その人は、ただ、淋しげにうっすらと微笑んだ。
こんなときに、言うべき言葉ではなかったかもしれないと、思う。それほどに――義母は、その「自己満足」を必要としているように見えた。
だけど、口にした言葉は取り消せない。
あの一瞬、手を伸ばして父を掴めなかったのと同じように。掴んでいれば、こんな風に、義母と二人きりで夏を過ごすこともなかったかもしれないのにと思っても、時は戻らない。
全く同じ何かを、やり直したり、取り戻したりすることは不可能だ。そんなことくらいは、十分すぎるほどに知っている。後悔なんて、何の役にも立ちはしない。
「そうと知っていても・・・こういう機会があるのは……助かるわね」
「・・・・・・うん」
それが、本来の宗教行事の役目だと思うよ。心のうちでだけ、僕は呟いた。肯くだけで、十分だった。
束の間死者の立ち戻る国に、僕らは、暮らしているのだから。
見覚えのない看板に、完は足を止めていた。
これが、街頭占い師の類だったら素通りしただろうが、ちゃんとした一軒屋。建物自体は、そういえば前からあったような気もする。しかし、縦に書かれた昔の診療所のようなこの看板は、断じてなかった。
「夢?」
呟いてみる。悪夢や吉夢といった睡眠時のものか、将来の夢といった展望か、そのどちらかが即座に思い浮かぶが、どちらも売り買いできるようなものではないはずだが。
どうしたものか。
別段、用事のない昼下がりではある。しかしだからといって、怪しげな得体の知れない見せに入りたいとは思わない。何なのか、気になるところではあるが。
帰るかと、足を動かしかけたときだった。
「あなた、入るの、入らないの?」
内側から外開きの扉を開けたのは、どこかの学校の制服を着た少女だった。高校生だろうか。長く垂らした髪は、緩やかに波打っている。
「気付いてないかもしれないけど、結構長く立ち止まってたわよ? 気になるなら、入れば? 入場料なんて取らないわよ」
「え、いや――」
「違ったのね、ごめんなさい」
待った、と咄嗟に声をかけてしまったのは、断じて、少女が美人だったからではない。・・・と、思いたい。
気付けば完は、木と埃の臭いのしそうな店内に足を踏み入れていた。プリーツスカートを翻した少女は、入ってすぐのカウンター台の向こうに行ってしまう。
まさか、あの少女が店主なのか。どう考えても高校生以上ではなく、完よりも年下だというのに。
だがその予想は、あっさりと覆された。
「いらっしゃい。悠が、無理な勧誘をしたようだね。お詫びといっては何だけど、どうぞ好きに見て行って」
馴れ馴れしくはない砕けた調子で言ったのは、白衣を羽織った青年――女性? だった。卵形の顔の輪郭に沿ったような短い髪といい、体型の判らない服装といい、性別が不明だ。声までも、中性的だ。
完は曖昧な返事をして、とりあえず目線を逸らし、狭い店内をぐるりと見遣った。
ガラス戸棚が壁に沿って並べられ、中には小瓶が納まっている。大きさも色形も様々で、それが商品なのかと、一瞬だけ思った。だがよく見てみると、瓶に括りつけられた札に、「野球選手になる」「ピアノの先生になる」「好きな人のお嫁さん」「ゼリーの海で泳ぎたい」「課長を殴る」などと、様々に読みやすい小さな字で書き付けられている。
「それが夢だよ。正確には、夢の容器」
カウンターから出てきたその人は、そう行って完の隣に並んだ。完と同じくらいの二十歳前後にも見えるが、逆に、実は四十台だと言われても肯けてしまいそうでもある。年齢も不詳だ。
その人は、白いすらりとした指でガラス戸を空け、王冠のような栓の銀色の瓶を取った。
「例えばこの中には、ある人の王様になる、という夢が詰められている」
「王様?」
「小さな頃に絵本で読んで、それ以来ずっと夢だったらしいよ。でも、日本は王制ではないし王制の国でも、突然来た外国人がなることは難しい。かといって、今のご時勢、国を立ち上げるのもまず無理だ。そうして彼は、諦めきれない夢を売りに来た」
狐につままれたよう、というのはこういうことを言うのかもしれない。そういえばこの人は、少し吊り目気味で狐に似ていなくもない。
そんな完の反応を読み取ったのか、くすりと笑った。
「どうせだから、ひとつ試してみる? 今なら、開店記念でおまけしてもいいよ。靴屋を持つ夢なんてどうかな。風呂敷で空を飛ぶ夢は?」
「からかわないでください」
「からかってなんてないんだけど。どうしてかな、大抵の人はそう言うよ」
冗談以外の何だというのか。そう思ったが、嘘を言っているようには思えず、糾弾することはなかった。代わりに、戸棚を見回して、「池に張った氷でスケートをする」という札を見つける。瓶は、ぎざぎさに削られた多面の三角錐。
完は、冬が嫌いだ。冬のスポーツは、更に嫌いだ。何を好き好んで、寒いところに出て行かなければならないのか。
「あれ、いいですか」
「アイススケート? いいけど、安全を確認してやらないとだめだよ」
言って足音も立てずに移動してガラス戸を引く。小瓶を取り出すと、代わりに王冠型の栓のものをそこに置いた。
完の目高さに瓶を持って、尖った栓を抜く。
低く高い不思議な、旋律めいたものがその人の口から出た。徐々に、それが風の音のように、木々の呼吸の音のように聞こえてくる。
ふうと、何かが吹いてきた心地がした。
「さあ、これでいい」
突然引き戻された完は、声もなく瞬きを繰り返した。今自分は、どこにいただろうか。この小さな店から、一歩たりとも動いてはいないはずだが。
その人は、それが地顔のように微笑んだ。
「また何か、ほしい夢があればどうぞ。眺めているだけでも楽しいから、来るだけでもいいよ。ああ、売りたい夢があればそれも歓迎」
「・・・お邪魔しました」
「はい、ありがとうございました」
にこやかに送り出され、そういえばあの少女はどうしたのだろうと、思いながら外に出た。外は春風で、わずかに冷たい冬の名残を残していた。少なくとも一年以上待たないと、と思った後に、何をだと思って愕然とした。
青年が出て行くと、樹はカウンターの中に戻った。椅子に座り、ほおづえをついて店内をぼんやりと見つめる。
「悠。どうして、私の前には姿を現してくれないんだ」
「そんなことないわよ」
「見えないよ、悠」
呟くような声で、誰もいない、瓶だけがひしめく場所に視線を彷徨わせた。
あれはいつからだっただろう。
多分、まだ幼い時分。当時ろくに友達のいなかったわたしは、遊ぶ彼らを見て羨ましかったのかもしれない。それが、いつか自分もやってみたいという願望になったのか。
いつか、エスカレーターの逆送をしてみたかった。
だがそれも、今となってはやれるはずもない。そう判っていながら、逆方向に進むエスカレーターを見るのは、少し辛い。ただのわがままと、判ってはいるのだが。
「それを、お売りくださるということですか?」
いささか年齢の判りにくい青年は、私のくだらない話を熱心に聞いて、にこやかに言い放った。そうだと告げると、電子計算機を打ってこちらに金額を提示して見せた。
正直なところ、本気なのか冗談なのかの区別がつかないでいる。
「 夢 売ります/買います 」
そんな看板があったからといって、間に受けている方がどうかしている。わたしも、あの女の子が声をかけてこなければ、入ろうなどと思いもしなかっただろう。
青年は、わたしの沈黙をどう取ったのか、わずかに首を傾げた。
「本当によろしいのですか? 買い取れば、まず同じ夢を持つことはありませんよ?」
こんな馬鹿馬鹿しいだけの望みを、持っていて何になるというだろう。思わず苦笑いしていた。
電子計算機の小さな画面をじっと見た。むしろ、もっと安くても構わない。
そう言うと、青年は静かに首を振った。
「お厭でしたら、結構ですよ。他の夢と交換ということでもよろしいですが」
あまりにも穏やかで、一瞬、否定されたとは気付かなかった。しかし彼はにこやかにきっぱりと、言い切って私の反応を待っていた。
わたしは、それを売ることにした。
青年は何の変哲もないつるりとした小瓶を持って、小さな栓を抜いた。
低く高く、謡う様な旋律を奏でる。声器は身近な楽器だと、改めて気付かされる。そこに何故か、機械音を聞いたような気がした。動く機械の音と、笑う子供たちの声。
「はい、ありがとうございます」
ふっと、高低のよく判らない青年の声に我に返る。
夢を見ていたかのようだ。
青年は、掌に収まる大きさの階段状に角ばった小瓶を示して見せた。先ほどまで、つるりとしたありふれた小瓶しかなかったはずだ。
そうして、載せていない反対の手で手品のようにお金を出す。わたしの夢の、代金だ。
「こちらは、一週間以内でしたら返品可能です。どうぞ、お気軽にお越しください」
二度と来ないような予感がしたが、逆に、明日にでも足を運ぶような気がした。
青年の掌に収まっている小瓶を見つめ、わたしは立ち上がった。
そういえばと、最後に気になって尋ねてみた。わたしをこの店に案内した女の子は、青年を呼びに店の奥に行ったきり姿を見せていない。
彼女は、彼の娘か親戚なのだろうか。
「悠は――そうですね、家族です」
微笑んだ青年の瞳は、だが何故か哀しげだった。
「ねえねえ、今日が何の日か知ってる?」
満面の笑顔の幼馴染に、冷たい視線を一瞥。
「正月は終わったな」
「そうそう、一年で一番おめでたくッてねー、って、何ヶ月前の話だよ!」
うるさい日が来た、と思う。知っているも何も、一月も前からさりげなく(と本人は思っているらしい)喧伝されれば、忘れたくても忘れられない。
しかもそれが、十年以上も。生れ落ちたときからの幼馴染という事実を、葬り去りたくなる期間だ。
「わかった。今年は何が食べたい?」
「・・・あのさ、そのまえに、もっと何か言葉はないわけ?」
「無駄は省きたい性分なんだ」
「いいよもう・・・夏のタルトとスイカの共演」
「相変わらずチャレンジャー」
年に一、二度行くだけの喫茶店のメニューを丸暗記している変な奴だと思いながら、それが大体でも判ってしまう自分も、何か厭だ。
鈍く澄んだ音を立てて、喫茶店の中に入った。
そうして、どうせ、一日が終わる前には「誕生日おめでとう」と言わされてしまうのだろうと、観念するのだった。今や、毎年恒例の行事だ。
耳元で、艶やかな声が聞こえた。
――ふふふ。皆さん、いいかおをしておいでですねェ。ほゥら、緊張していて、おびえていて、その癖、目だけがぎらぎらと期待して。怪談ってのは、やっぱりこうでなくッちゃねェ。
怪談、と思わず返すと、
――おや、何を驚いておいでで? あたしたちゃみな、暇に飽かせて怪を語るために集まってるんでしょうに。
女とも男ともつき難い老人の声が言った。傍らで、くすくすと色っぽく笑う女の声も聞こえた。
――ああ、始まるよ。ほゥら、何はともあれ来てンだ、耳を傾けようじゃないか。
そうして語られたのは、朝闇の怪異だった。夜と朝の狭間の、そんな彼は誰時の不可思議な出来事。語るのは、朴訥そうな、少しばかり上ずった男の声だった。
それを皮切りに次々と、滑らかに多くの怪異が語られていく。
若い声、年老いた声、男、女、淡々とあるいは切羽詰ったように。しかしそれらは、途切れることはなかった。
――それでは最後は、僭越ながら、わたくしが語らせていただきましょう。
語られたのは、声の怪。一人で寝ていると聞こえてきた、大勢の者らの語る、たくさんの怪談。語るのは、落ち着いた男性の声。
――さあこれで百話、明かりを吹き消し、闇へと戻りましょう。
声たちは黙り込み、そして異常すぎるほどの間が経ってようやく、目を開いた。
今時呆れるくらいに狭い、一間。二人分、どうにか布団が敷ける程度でしかない。窓の外では、今にも夜が明けようとしていた。
「や、やめろっ、待て! 待ってくれ!」
あまりにも必死に頼むものだから、とりあえず待ってみた。
そうしたら相手は、何を期待したものか、必死ながらも生気を取り戻した眼でこちらを見つめる。残念ながら、そこに正気は薄い。多分、本人は気付いていないだろう。
「な、なあ、ここで俺を殺して何になる? 手ぶらで戻れないって言うなら、雇ってやってもいい。そうだ、一番の側近にしてやる。あいつみたいに、使い捨てに使い潰したりしない。それに俺は、これからもっともっと偉くなるんだ」
俄然調子を取り戻し、滔々と、「偉くなる」根拠らしい、反吐の出そうなこれまでと得意そうに語る。やはりそこに、正気は不在だ。
まあもっとも、何を指して正気と呼ぶのか。皆が皆、凶器の只中にいると言えばその通り。真っ当すぎて、反論の余地がない。
「こんなところで俺がいなくなったりしたら――」
「あのさ。あんたが死んだところで、何も変わらないよ? 敵対者が喜んで、あんたに賭けてた連中ががっかりして、もしかしたらいるかもしれないあんたを好きな人が悲しむだけ。でもそのうちの誰もが、生きてる限りご飯は食べるし息はするし明日のことを考える。ねえ、何が変わる?」
「…何?」
「別に、取替えが利くとかは思わないよ? あんたはあんたしかいないし、あんたみたいな奴は山ほどいたとしても、それはみたいな奴でしかないからね。でも、だからって、何?」
ただでさえ見目がいいとは言えない顔が、見る見る青ざめる。これは、怒っているのか恐怖しているのかどっちだろう。
別に、興味はないけれど。
いい加減待つのにも飽きて、無駄に重いカタナを振り上げる。
「待っ――」
「待ったじゃん。十分」
研ぎ澄まされた鉄の塊に易々と切り込まれ、標的は、大量の血を噴いてやがて、それも収まって無様に命を失う。
飛び道具も毒も選り取り見取りの環境で、わざわざ毎回研ぎに出さなければならないカタナを選ぶには、単純な理由がある。
殺したと実感できること。
それを楽しみたいわけでは勿論なくて、殺人自体は好きでも嫌いでもない。ただの仕事で、そんなものに好悪をつけていれば疲れるだけだ。だからこれは、ただの目安。カレンダーをめくるようなもの、あるいは賞状や段位を数えるようなもの。
「あ。一個だけ訂正あったんだけど…ま、いっか。聞こえないし、今更」
反論は、雇い主との関わり方について。使い捨てとして扱われている覚えはない。
何しろあいつはいつもこの仕事をやめろと煩くて、これ以外に向いているものがないのだと理解させるのにどれだけ苦労したか。しかも今なお完全にはわかってくれず、隙あらば他の職に就かせようとする。馬鹿だ。
そして、標的に言ったことは全て当然、自分の身にも返ってくる。
こんなちっぽけな存在がなくなったところで、何も変わらない。けれどまあ、あの雇い主は、悲しんでくれるだろう。
そう思うと少し、死を遠ざけようという気になる。
「あいつにそんなこと言ったら、まず殺しをやめろって言われるんだろうけど」
人には向き不向きがあると、奴はいつ気付くだろう。
青い空には雲ひとつなく、とても晴れやかに、気持ち良さそうに晴れ渡っていた。初冬の寒気も日差しに緩和されて、結構心地いい。
――こんな世界なんて滅びたらいい。
唐突に浮かんだ思いに、ぎょっとして、でも次に納得した。ああ、うん、そんなものかも知れない。
「今、何考えた?」
右手側から声がした。しっくりと耳に馴染む。ちらりとそちらを見ると、あたしによく似た顔の主が、一段高くなった縁に腰掛けている。その背面は強いて言うならば空気で、うっかりバランスを崩そうものなら、落下するだろう。
屋上からの転落死。校舎の屋上は勿論立ち入り禁止なのだけど、鍵を拾って入ったというのは、学校側の管理不備になるのだろうか。だとしたら、少し気の毒だ。
「こんな世界なんて滅びたらいい」
「へえ」
心に浮かんでいた言葉をそっくり声に出すと、彼は、興味深げな声を返した。
そちらを向くと、にやりと、人の悪そうな笑みが浮かんでいると判る。似たような顔なのに、こんな表情が似合うってどうだ。
「手っ取り早い世界の滅ぼし方を教えてやろうか?」
「例えば?」
「飛び降りればいい。死んでしまえば、世界は終わるだろう?」
「世界の中心は私だ、って?」
「人間は、自分を通してしか世界を認識できないものさ。極論、思い描いている世界なんて代物は、自分の中でだけつくられたもの。それなら、自分が終われば、必然、世界も終わる」
軽やかに、日常会話には微妙に出てきそうにない単語や言い回しをぽんぽんと使ってくる。それでも脳内変換に戸惑わないのは、慣れか。
もし彼があたしの想像の産物だったりすれば、この光景は、結構シュールかもしれない。一人で会話をしている。もっとも、よく似た顔が並んでいるのもシュールだ。
深々と、溜息が落ちた。
「あのさ? 暇つぶしに、妹を自殺に導かないでくれる?」
今はテスト期間中の放課後で、試験と三者面談を組み合わせるなんていう思い深い学校側の決定により、あたしは時間をもてあましていた。勉強をすればいいのに、なんとなくそれも手につかない。
多分、そんな憂鬱加減があんなことを思わせた。面倒でしんどくて、ぱかりと突然に世界に終止符が打たれれば、何も考えなくていいから楽なのにとか、多分、そんな思考の末に。
でも、別段死にたいわけではなくて。その上、あと一週間で世界が滅びるなんて言われれば、あたしは目一杯自分の生と世界の存続を望むのだろうし。
睨みつけた先で、一つ年長の兄は、ふふんと鼻で笑った。
「付き合ってやってるだけありがたく思え」
「自分だって、面談までの時間つぶしの癖に。勉強しろ、馬鹿兄」
「世界を終わらせようと目論んでる身内を置いてか? 後々後ろ指を差されることになるのは厭だぞ」
「思ってないっての」
ふん、と目を逸らし、ぼんやりとする。ああ、何だかのどかだ。
だから――のどかなまま、全てが終わればどれだけ幸せだろう。
「何やってるんだ、君は」
少女は、幼さの残る姿には不似合いなほどに堂々と、呆れ返った声を上げた。旅装をしている。
その声に弾かれたように身を起こした人影は、逆に老いて見えた。櫛も通さず伸びた髪には、はっきりとわかる埃すら付着している。城の片隅に埋もれた、壊れた銅像のようにも見える。
虚ろだったその瞳が今は、一心に少女に焦点を結ぶ。
「何故…何故、戻った!?」
「君のせいだろ」
血を吐くように悲痛な声に、少女はあっさりと言い切ると、周囲に散乱した何とも判別しがたいかたまりを身軽に避け、汚れきった髪に手を伸ばした。
触れようとした寸前に、何かに恐れるように、彼は身を引いた。
少女は怒ったように顔をしかめ、無精ひげに埋もれた顔を小さな白い手で捕らえた。
「全く。ぼくがいないとこれだ。うっかり口車に乗ってここを出たぼくが馬鹿だった。まずは髭と髪を適当に切って、お湯をかけてからお風呂だね」
「早く…ここを出ろ」
「厭だね。君、なんて言われてるか知ってる? 偏屈で変人だった領主は今や、悪霊か何かに獲りつかれただか乗っ取られただかして、悪魔になりおおせたそうだよ。村々の家出人や失踪人は残らず、君の仕業ってことになってる」
「だから…村人たちが攻め込んでくる。このままだと、お前まで巻き込んでしまう!」
「馬鹿だな」
少女は、いっそひたむきなほどに見詰めてくる領主に、哀しげな微笑を投げかけた。そうしてそっと強く、抱きしめる。
「お得意の予見? だからぼくを遠ざけようとしたのか。そんなことをしなければ、君はまだ偏屈で変人なままだったと思うよ」
「頼む。…ここを出て…幸せになってくれ」
「幸せ? 君がいないのに、幸せになれって? ――君がいてくれるなら、それで十分なのに」
そう言ってにこりと、少女は微笑んだ。領主の頬を両手で叩く。
「さあ、自分の馬鹿さ加減がよーくわかったら、金目の物持ってとんずらしようか」
「――――――え?」
きょとんとした領主を腰に手を当てて見下ろし、少女は、首を傾げた。
「ぼくが出て行ったあと、何かいじった? ああ、いいや。見て来る。君は…そうだな、人が来てないか見てて」
「お…おい?」
「何?」
「僕は――ここを放置していくのは」
「君ね。もう、君が領主としての働きをしてないのは自覚してるだろ? 心配しなくたって、一族の誰かがどこかから来て何とかするよ。責任放棄を嘆くなら、十年は手遅れだね」
絶句してしまった領主を放置して、少女は素早く動いた。
実のところ、この城で暮らし始めた当初から目はつけていた。そのあたりは、育ちがものを言った。
少女は、階段を上ったところで領主を振り返った。呆然と、しかしその眼は少女を追っている。それを知って、少女は少しだけ笑顔を歪めた。
「ごめんね。きっと、君はこのまま消えた方が幸せかもしれない。でもぼくは、それだと厭なんだ。――気まぐれにぼくを拾ったのが運の尽きだって、諦めてね」
――そうして、数多くの人を呑み込んだ城は、城主の失踪と共に噂の中に没した。
タソガレ、という言葉の由来は知っている。
多分古典で、そうでなかったら、入学したてのときだけちょっとしゃべった金森から聞いたんだと思う。
タソガレは「タレソカレドキ」、「誰そ彼時」。つまり、あいつは誰だと、そうきかなければいけないくらいによく見えない時間だというのが由来。ちなみに、明け方は「カワタレドキ」、「彼は誰時」。言ってることは同じなのに、ちょっとのことで区別をつけようとする。
またそれとは別に、夕方には「オウマガトキ」、「逢う魔が時」、妖怪とか、何かよくわからないものにうっかり逢ってしまう時間だなんて呼び方もあるとか。これは確実に、あの地味な金森から聞いたハナシ。
――そんなこと、どうでもいいんだけど。
そんなどうでもいいような知識、でもきっとうちの学校のではほとんどが知っているに違いない。
この学校には、「黄昏時には逢いたい人に逢える――この世にいない人でも、というかそっちがメイン」という噂がある。しかも、「友達の友達」じゃない体験談もたくさん。
「…ったく誰よー、クジにこんなのまぜたヤツー」
タダイマ、あたしは教室でたった一人。窓の外からは運動部のかけ声やら吹奏楽部の演奏やらが聞こえてきて、活気はあるけど遠い。多分、青春ってヤツ。ああ、暑苦しい。
昼休みのヒマつぶし、大富豪で負けて引いた四つ折の紙には、「黄昏時を試してみる」という一文。わざと書いたような走り書きで、誰の字かはよく判らなかった。
「黄昏時」。
それが、この学校の公然のヒミツ、ウワサの的。方法はカンタン、ただただ、放課後の学校にいればいい。夕方、つまりは黄昏時に。ただし、必ず一人で。
放課後っていったって部活をしてる子も先生もたくさん残ってるから、一人になれる場所ってのは案外少ない、らしい。トイレの個室にこもったけど、何しろ個室、誰か他の人が入れるわけもなくて結局誰にも会えなかった、なんて笑い話もある。
それを考えるとあたしは、教室でぼんやり座ってるだけで目的を果たせそうなんだからついてるのかもしれない。
――っていったって、逢いたい死人なんていないんだけど。
この季節、黄昏時は大体下校時間に重なる。下校時間になると校内放送がかかるから、それをケータイで中継すれば、任務完了。
つまりは、あともうすこし、ぼーっとしてないといけないわけだ。
「あー、ひま。ねちゃおっかなー。…でも、それで誰にも気付かれなくって起きたら夜、とかヒサンよねー」
ついついこぼれる独り言。この前なんて、うっかりテレビ相手にしゃべってて自分でひいた。一応、一人暮らしでもないのに、まだ高校生だってのに、それってどうよ。
それにしても退屈で、本当に寝ようかな、と、ちょっと目をつぶった。
「ねー、居眠りするなら家帰った方がいいんじゃない?」
「え」
いきなりの声に、突っ伏していた顔を上げる。電気もつけてないから、顔までははっきりとは見えないけど、制服を着た女の子だってことは判った。
――ちょっと待ってよ、ここまで来てやり直し?
「いくら春だからって、こんなところで寝たら風邪引くわよ? 今の時期、朝晩は冷え込むんだから」
「…うるさい。何、あんた」
「ほらほら。それでなくたって、季節の変わり目は体調崩しやすいんだから。馬鹿なことしてないで、早くお帰りなさいな」
「うざ」
そろそろ下校を呼びかける放送の流れる時間で、ここにいればこの女がずっと話しかけてきそうで、かばんをつかんで立ち上がる。
最後の最後で、ついてない。
「その言葉遣いはないでしょう、女の子なのに」
「…はあ?」
変な女。
思わずにらんだけど、相手にしないほうがいい。とっととここを出よう。出ようと――した。
「あのねーヨウちゃん。もっと自分を大事にしてやりなさいな。自分のことを一番思いやれるのが自分なんだから。お父さん、一人になっちゃって忙しいしね」
「……え…?」
あたしをヨウちゃんなんて呼ぶのは、一人だけ。だって、縮めるほどの長さもないし言いにくいわけでもない名前で。そのクセ、その名前を選んだ片方が、いつもそうやって呼んだ。
思わず振り向くと、明るいのに暗い、妙に見えない教室に、ぽつんと一人が立っていた。暗くて、顔なんて判らない。だって今は。
「…あなた、だれ…?」
「さあ、誰でしょう?」
「ふざけないで!」
「言わないわよ、照れ臭い」
楽しそうな声に、何も言えなくなった。どうして。言いたいことは、たくさんあって、それなのにどうして、何一つ声にできないの。
きっと、生まれて生きてきた中で一番、今が悔しい。――どうして!
「ま、わたしは向こうでのんびりしてるから、お父さんには急がないでいいって言っておいてね。ヨウちゃんは、もっともっとゆっくりでいいわよー。親としては、子どもに先越されるのイヤだしね」
ぷつりと、放送の入る前のかすかなノイズが聞こえた。
『――下校時刻になりました。校内の生徒は――』
見回りに来た先生に追い出されたときには、すっかり夜になっていた。時間はそんなにたってないはずなのに、ずいぶん暗い。星まで、出てきていた。
暗くなりきるとそれはそれでそれなりに、人の顔も判るから不思議だ。明るいのによく見えないあの時間は、一体何なんだろう。
ぼんやりとバスを待っていたら、ケータイがノーテンキにカルトの新曲を歌った。
「――何?」
『どーだったー?』
「何が?」
『何がって、黄昏時じゃん、黄昏時! 何か出た?』
実況中継をする相手は一人だけ、適当に選ぶつもりで決めてもなかったから、気になってかけてきたんだろう。明日学校でわかるってのに、せっかちだ。
直接会ってしゃべるのとは少し違った感じで、ユキの声が聞こえる。やけにはしゃいでる。
「うん」
『やっぱり?! スゴイスゴイ、誰?』
「――お母さん」
あ、と言って、気まずそうに黙り込んだ。うん、自分のことでもないことなんて、カンタンに忘れちゃう。でもそれは、別に悪いことじゃない。遠慮ばっかりされるのも困るし。
なんだかちょっと、笑っちゃった。
「それが、制服着ててさ。いくらなんでも若作りにもほどがあると思わない?」
『せーふくー?』
「そ。あ、バス来たから切るね。くわしくはまた明日」
『えー!』
「じゃね、ばいばい」
バスが来たのは本当で、話し終えたケータイをかばんに放り込む。
あの紙を入れたのが誰だったか知らないけど、わかったらお礼くらい言おうかなと、ちょっと思った。
ハーメルンの笛を探している、とその男は云った。
ハーメルンですか、と、私は応える。ドイツ産の笛ですか?と、とぼけてみせる。
男は、ゆらりと、しかしせわしげに首を振った。
違います。ハーメルンの笛吹き男、知っているでしょう?
そう云って、ひたと、私の眼を見つめる。視線を逸らそうにも、どこか茫洋とした瞳には、抗い難い何かがあった。
ハーメルンの笛吹き男は、独逸で実際にあった集団失踪事件を基にした御伽噺らしい。
その話の中で、不思議な旅人は笛を吹く。その音でねずみを操り、子どもを操る。
あの男の吹いた笛を、あなたは持っていますね。
此処は日本ですよ。
其処にあるのは、伊太利亜の提琴(バイオリン)ではありませんか。其れは、阿弗利加産の柘榴石(ガーネット)ですね。
説明書きも正札もないのに、一目で言い当てる。得体の知れない不気味さに、私の背筋を、汗が伝った。
ええ、うちは古物商を営んでいます。ですから、各地の色々な品が、様々な過去を伴って集まってきます。ですが、そのような品は、
時間がないのです。お願いします、あれは、私の、唯一の成功品なんです。
男は身を乗り出し、縋るように言葉を搾り出した。一秒足りと目を逸らさずに、必死に訴える。
周波数を変えれば、どんな生き物だって呼ぶことができる。ハーメルンで行われたように、人に対して使われれば、いや、それ以外のどんな生き物にだって、悪用されれば大変なことになる。それに、何よりあれは、私の実験の唯一とも言える成果なのです。
一体、貴方は何なのですか。わけのわからないことばかり仰るのなら、お引き取り願いたい。
吃度、信じては貰えないでしょう。――あの笛を作ったのは、私です。
素晴らしい誇大妄想だ、と、笑っても良かっただろう。そうするべきだったのかも知れない。
しかし私は、凍りついたように男を凝視した。長い時間をかけてようやく、口の端を吊り上げる。
もう一度、作ればいいではありませんか。否そもそも、あの笛を貴方が作ったとするならば、失礼ながら、随分とお若く見える。どれだけ年齢を偽れば、其れが実現するというのでしょう。
男は頭を掻き毟り、腕に巻いた何かを見遣った。絶望の色に、顔が歪む。
貴方たちは、いつも其れだ! 何故信じては呉れない、私がこうしてやって来られる時間は少ないというのに、何故、何故邪魔をする! とにかく笛を、返して呉れ――
ふつりと。
男の声が途切れた。
男の姿が、掻き消えた。
たった一人残された私は、呆然として、そうして、男の姿を求めて店内を見回した。人が隠れられるような場所は、どこにもない。
ややあって、私は、そっと引き出しを引っ張った。小振りの笛を、取り出す。
息を吹き込むと、ぴいと音が鳴った。
夜中に、電話が鳴る。
零時丁度のそれは、決まって叔父の声だ。
他愛もない話を十数分もして、電話は切れる。
『なあ、こっちに来いよ。俺が行ってもいい』
またそのうち、とか、今は都合が悪い、とか。適当に誤魔化す。
零時丁度の電話はいつも、そのやり取りで終わる。
叔父が行方知れずになって、今年で七年目になる。
もうあんな家に帰ってやるものか、というほどの、強い意志があるわけではなかった。
ただいつものようにほんのささいなことで互いに不機嫌になって、口ゲンカをして、学校から持って帰ったばかりのカバンをつかんで飛び出した。
夏で空はまだ青いが、早いところではもう夕食時だろう。
家族仲のいい友人たちを思い浮かべて、行くあてがないなあと、一人溜息を落とす。携帯電話はいつだって誰にだって繋がっているが、実際に連絡を取れるかといえば、それはまた別だ。本当に切羽詰ったときならいざ知らず、呼んですぐに駆けつけてくれなどと、言えるはずもない。
「かげふーんだっ」
きゃーっ、と、子どもたちの高い声が響き渡る。
「…楽しそー」
ぼんやりと、元気に駆け回る子どもたちを見つめる。小学校の低学年くらいだろうか。
夕暮れの公園で、子どもたちだけが全力で遊んでいる。こんな光景ってまだあったんだなあと、子どもたちからは少し離れて、入り口の車止めに腰掛けて思う。
子どもが外で遊ばなくなった、外にいても携帯ゲームでばかり遊んでいる、と聞くし、ほのかが子どもの頃だって、似たようなことは言われたような気がする。それでも、こんな子どもたちもいる。
それだけこの辺りが田舎なんだ、という気もするし、だから大学は都会に行きたい、とも思うが、それとは別に、のどかで微笑ましい光景だとは思える。
「いーちっ、にーいっ、さーんっ、しーっ、ごーっ!」
のびた遊具のかげに隠れていた女の子が、追い立てられて飛び出す。きゃー、と、七人ばかりの子どもたちが駆け回る。
「かーげふんだっ」
鬼が交代する。
何も考えずただぼんやりと子どもたちを見ていたほのかは、不意に、妙なことに気付いた。
――影が、多くはないか。
動かない遊具やフェンスの影の合間を、子どもたちが走り回っている。それを追って、もちろん影も動き回る。動いているからわかりにくくはあるのだが、どうにも、一つ、多い気がする。
まさか、と目を凝らす。そんなことがあるはずがない。
「え?」
不意に、重なった影が一つになった。
「…えええ…?」
小さく、声が漏れる。
重なった二つの影が、たしかに一つになった。影の元を、子どもをさがすと、一人しかいない。何だ見まちがえか、と、ほっと息をはきかけたところで、影が動いた。
本体のはずの子どもとは明らかに違う方向に移動して、別の子どもの影に重なる。そうして、また、一つになる。
「…なん、で…?」
呆然と、黒々とした影を凝視する。
そんなほのかの目の前で、影は勢い付いたように、すべてが一つに重なっていく。気付けば、動く影はたった一つになっていた。子どもたちは――
夕暮れが、訪れていた。
日が沈んだのか、うっすらと暗い。人の見分けもつかないから誰そ彼、タソガレドキというのだと、古典の授業で聞いた話を思い出す。
夏の今となっては、それは多くの家庭で夕食時ではないのか。
まだ小学生くらいの子どもたちは、家に、帰らなくてもいいのだろうか。
「お姉ちゃんも、影踏み、する?」
子ども特有の、高い声。
子どもたちの顔は影になっていて、誰がそういったのかもわからない。ただはっきりと、その言葉は聞こえた。
影踏み遊び。影踏み鬼。影を踏むのは――鬼だ。
たった一つの影を、ほのかは、ただただ見つめていた。夜のとばりは、すぐ、そこに。
昔昔、猿と家猪と河童とを従えて天竺に渡った、少なくとも心意気だけは立派なお坊さんがいました。長旅から帰国し、仏教翻訳にいそしんだその偉いお坊さんは、ある日ぽつりと呟きました。ここは静かでいいなあ、と。
不思議に思ったお弟子さんが尋ねると、お坊様は苦笑して、長い間道理の判らぬ動物たちばかりしかいなくて、しかもあの者たちは鳴くからね、と仰ったのでした。
水の上を歩いていた。
アメンボのように水面を歩いて、後には丸い波紋が残る。
冷たくて弾力のある感触が面白くて、どこまでも歩いて行けそうだった。
それが。
とぷん。
体が沈んで、視界が空とは違う青に埋め尽くされる。
深く深く潜っていく途中、沢山のものを見た。
薄っぺらい魚、厚い魚、小さな魚に大きな魚。水泡や、見たことのないいろんな形をした生き物たち。
体を包む水は、冷たくて気持ちが良かった。
そうして、ふと気付く。
自分も泳げることに。
右にも左にも、上にも下にも自由に動ける。
とてもとても、楽しい。
そうして、きらきらと光る上を目指した。
光を受けて光る水面は、下から見ると綺麗な壁のようだった。
ぱしゃり
みるみる水面が遠離り、体は中空に浮いていた。
・・・・・・・・・・・・。
夢を見ていたとも気付かず、目を覚ました。
眩しい日の光にも負けず顔を上げて、翼を広げる。
そうして風に乗って、空へと飛んでいった。
ふと気付くと、影が増えていた。
一人分と言えばいいのか、一体か、一本か、とにかく、足元から伸びるあれだ。
いつもではないのだろうが、いつの間にか増えている。光の当たり具合で増えているわけではなくて、明らかにわたしとは違う動きをしている。
そして、身振りからするとどうも口説いているようなのだ。――わたしの、影を。
そこが問題だ。
影がそうやって好き勝手に動けるのだとしたら、もしもわたしの影が正体不明の影とどこかにいってしまったとしたら、残されたわたしはどうなってしまうのだろうか。
さて、どうしたものか。
もうすぐ、俺の季節が来る。
間違いない。あの頃と同じだ。来るんだ。確実に、俺の時代が・・・!
ガラ
「えーっと、三つ目のとこら・・・あ、あったあった」
「へ―、これがあのピストルなんですか」
「うん。ちょっと持ってて。火薬は・・・」
「これですか?」
「ああ、それじゃなくて・・・こっち。それ、古いんだよ。こっちは昨日買って来て放り込んでたんだって」
「じゃあ、これ捨てるんですか?」
「そういう事になるかなあ。あ、いいよ、今は置いとこう」
「はい」
ガラ
待てコラ―ッッ!
俺は一年待ったんだぞ、それをなんだ、古いだと!?
待てッ、返せ、戻せッ、俺の青春を―――ッ!!
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今年こそは、どうかのお。
わしゃあ、もう長い事ここにおるしのお。すっかり、埃に馴染んでしもうたわ。誰ぞ、ここから出してくれんかのお。
ついさっきも二人来たが、わしにゃ縁のない奴らじゃったからのお。
ガラ
「うわ、カビくせ―」
「ホントに使えるやつあるのかよ」
「知るか。センセーに訊け」
「げー、この釘ぼをぼろじゃねーか」
「ごみばっかじゃねーの?」
「あっ、鎹[かすがい]がある!」
「それもさびてるんじゃないか?」
「いや、使えそうだ。持って行くか」
ガラ
おお、ようやくわしの願いが通じたかのお。わしも、まだまだ若いもんには負けんぞ。
さあて、ひと働きしてくるかの。
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彼ら(彼?)が隣り合っていた事を、本人(人?)達は知らない…。
月が出ていた。満月が、線路を冷たい金属として浮かび上がらせる。
この片田舎に合っているようないないような、どこか不安定な光景だった。
「帰ろうよ」
「帰れば? ついて来てなんて言ってないじゃない」
司が、不安そうにしている要を見遣って言った。慌てて首を振る。
「一人だけなんて、危ないよ」
「だいじょうぶだって。ちょっとユーレー見るだけなんだから」
「だからそれが! とりつかれるよ」
「それはそれで、たのしいかもね」
要が、泣きそうな顔で睨む。厄介なのにばれたなあ、と司は溜息をついた。
まだ十年も生きていない二人は、田畑の中に埋もれるようにしてある踏み切りの前にいた。真夜中で、この辺りの数少ない家々では、人々が眠りについているだろう。
そんな時間に、司は噂を確かめに来たのだった。
「つかさちゃん…」
「うるさい。こんなじゃ、出るものもでなくなるじゃない」
「つ、つかさちゃん……」
「だか…うわあ…」
月明かりに、赤い着物の女が浮かびあがる。付き添いも誰もいない。女は、揺らめくような足取りで、しかし確実に踏み切りの方に近付いてくる。
言葉を失って硬直する要に気付かないまま、司は女を凝視した。
女は、有り得ないような白い肌に、唇には紅を差していた。口元はよく見えるのだが、目は被り物で隠れてしまっている。そして、女の着物は――白無垢に色がついたようなものだった。
踏み切りまで来ると、止まって、笑うように口の端を持ち上げた。反対側にいる司は、だがそれを見ていた。
踏み切りに足を踏み入れた途端に、女は消えた。
あとには、月の光と冷たい線路。その近くには、赤い死人花が咲いていた。
毎年、七夕の夜には星の見える場所に行く。
そう言うと聞こえはいいが、要は、人里離れた真っ暗闇に行くということだ。夏だから車の中で一晩を過ごしても風邪をひくことはなく、もう、慣れた。
真っ暗闇を見上げる。
「残念。今年も雨なのね、まだ梅雨明けしてないんだから仕方ないのかなあ。やっぱり七夕って、旧暦にやるべきじゃない?」
澄んだ声がすぐ横で聞こえる。見なくても判る、蒸し暑いのが厭だと剥き出しにした腕に顎を置いて、フロントガラスにおでこをくっつけるようにして外を見ている。
折角来たのに、年に一回きりなのに、とぼやきながら、一心に夜空を見上げる。
「でもさあ、私ちいさいとき、織姫と彦星が会えて嬉しくってその幸せのおすそ分けにみんなの願い事を叶えるんだよ、って聞いたのよね。実際年に一度しか会えないなら、そんな余裕あると思う? 他にやること色々あるでしょ?」
軽やかに、不満を言いながらも笑うような声。さらさらと、耳に流れる。
「なんだかねえ。クリスマスと一緒で、結局、いろんな伝承を勝手に解釈した上でいいとこ取りしちゃったんでしょうね。七夕の願い事って、そもそもは字が上手くなりますように、とか、お裁縫の腕が上がりますように、とか、そういうのだったっていうし。だから短冊書くのよね」
大学でやっていたのは全くの畑違いの分野だったはずだが、彼女は妙にそういうことに詳しかった。一般生活の中では雑学と呼ばれるだろう知識を、常識のようにさらりと語る。
――そんな彼女を、重苦しく思うようになったのはいつからだっただろう。
七夕に天の川を見たがったのは彼女で、俺はどうでもよかった。いや、むしろそんなことは面倒だと思った。
「ねえ、タカは短冊になんて書く?」
「――頼む、もう勘弁してくれ!」
決して隣は見ないように白々と光り輝く星に視線を据えて、声を絞り出す。雨が降ったあの日の七夕は――もう、十年以上も前のことだ。
「いい加減にしてくれ、もう子どもだっているんだ、お前はとっくに死んだはずだろう!?」
叫び声も、彼女には届かない。
ただただ楽しげに、あの日の会話を繰り返す。あの日、俺が別れを切り出すまでの会話を。勢い余って、命を奪ってしまうまでの会話を。
車を変えても場所を変えても、この日、彼女は俺の元に訪れる。そうして、何一つあの日と変わらないことを繰り返す。まるで、映画の一場面のように。
「私は、タカとずっと一緒にいたいな」
少し恥ずかしげな、しかし幸せそうな笑顔を、俺は絶望の思いで見つめる。
願いが叶うというなら。
この悪夢から逃れる術を。
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