夏の匂いがする、と思ったら、蚊取り線香の煙が漂っていた。
そうか、この匂いは私にとってイコール夏なんだなあと、ぼんやりと、空気に混じって薄く消えていく煙を見守る。
耳には、痛いくらいにセミの声。
視線を逸らせば青と白の綺麗なコントラストを作り出した空がある。屋根に遮られてはいるけど、強い日差しも降り注いでいる。
そっか、夏だなあ。
黒々と艶めくひやりとした柱にもたれかかりながら、いかにも暑そうな軒先に目をやる。トマトやきゅうりといった野菜が実をつけ、これも夏を象徴するようなひまわりが、広々と花を咲かせている。
ええと。どうして、誰もいないんだろ?
夏休みのこの家は、従姉妹連中が集まって騒いでいるはずで――いや、それは子どもの頃か。高校生くらいまではともかく、皆、それぞれの生活が忙しくなって田舎に足を運ぶことも少なくなった。そうすれば、親だってやって来はしない。
にぎやかな夏休みは、今となっては過去だ。
だがそれにしたって、こうも人気がないのはおかしい。昔、ぐっすりと眠っていたから、と一人残して墓参りに出かけられてしまったことがあったが、また似たようなことが起こっているのだろうか。
あの時、一人目を覚ました私は、世界にただ一人取り残されたかのような恐怖に襲われた。だというのに、ここから徒歩五分とかからない墓地から戻った親戚たちは、泣いて家を歩き回っていた私を見て笑った。
あれは、けっこうな裏切りだったと思う。今となれば。
しかしもうそんな子どもではなくて、いくらなんでも、泣いて誰かを探すことはない。ただ、どうして誰もいないのかなあと、ぼんやりと腰を下ろした。
そうして、ごろんと仰向けに寝転がる。昔ながらの家だからか天井が高くて、やはり子どもの頃、この天井を見上げているうちに自分のいる場所があやふやになってしまい、怖くなったことを思い出す。
懐かしいなあ。
セミの声を聞きながら、蚊取り線香の煙に燻されながら、軽く目を閉じる。縁側から差し込む光はあるが、光が強い分闇も濃い。
そういえば、今はお盆か。
いなくなった人たちの戻って来る時期。盆踊りが一方向へのみ回るものだったりお面をつけたりするのは、そこにいないはずの人たちが混じっていても気付かないふりをするためだと、どこかで聞いた覚えがある。
死者と生者が入り交じり、お互い、薄々それと知りながら知らん顔をする。それは優しく曖昧で、しかし、きっぱりとした区別でもある。交じりはしても、混じりはしない。
ああ、そっか。
頭の上で聞こえた、畳を踏むかすかな音に、ゆっくりと目を開く。母が、少しだけ呆れたように見下ろしていた。
「あんた、こんなとこで何やっとん」
「寝てた」
「夏休みやからってだらだらせんと、さっさと宿題でも片付けんか」
「うんー、そのうち」
そのうちってそんなこと言っていつやるつもり、と、怒っているわけではないのに強い口調で言う。私は、ただ笑って返した。
小言は過去にまで遡って、延々と続いた。それを聞きながら、じっと母を見ていた。
「お母さん」
「何」
「…ありがとお」
母は、目を丸くして首を傾げると、何言ってるんこの子は、と言って去って行った。私は、そのまま天井を見つめていた。黒々と、闇の滲み込んだような色をしている。
やがて、玄関の開く音がした。そのまま足音は、真っ直ぐに近付いてくる。
「めっちゃ歩いたー。何でコンビにまでこんなに遠いんよ、大人しくお父さんについて行けばよかっ…何やってるん、お母さん?」
長い髪をまとめ上げた娘が、きょとんと上から私を見下ろす。少し笑って、身体を起こした。
「うわー、ほこりでジンタク採れてるで、これ」
「ジンタク?」
「魚拓の人間版。ほこりつもってるからスリッパ履けって言ったんお母さんやん。何してるん」
言いながらも娘は、ぱたぱたと頭や背の埃を払ってくれる。
うるさいくらいのセミの声と、漂う蚊取り線香の煙と、容赦のない太陽の光。光が強ければ、闇だって濃い。そしてお盆は、死者と生者が交じり合う。
はいジュース、と差し出されたペットボトルのキャップを捻り、私は、ぼんやりと埃だらけの部屋を見た。一人暮らしの長かった父――娘にとっての祖父が亡くなり、話し合った結果、取り壊すことを決めた、この家。昔は、夏になれば従兄弟たちが集まり、娘が生まれてからは姪や甥たちと集まっていた。
「…ここなくなってまうの、淋しいな」
ぽつりと口にした娘は、照れ臭いのか視線を逸らしていた。軒先の、昔は青々と茂っていた畑の跡を見ている。
そう言えば娘は、母に――彼女にとっての祖母には、会ったことがないのだ。母は、娘が生まれるよりもずっと前に、それどころか私が夫と出会うよりも前に、この世を去ったのだから。
そんな娘に母の話をしたらどう思うだろうと、ぼんやりと考えながら、私も畑に目をやった。
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