夏山

 それは、ある夏の記憶。


 夜闇に沈んだ山は、ひどく恐ろしかった。

 得体の知れない音に、声。黒々とした闇の向こうには、よくわからない化け物が潜んでいるに違いなかった。

 そもそも、野山を歩き慣れていない。都会と言うには憚られても、田舎と言うのも違うような、そんなところで暮らしていたのだ。父の実家の、こちらは田舎と言って異論のなさそうなそんなところに行くのは、せいぜいが夏休み、祖父母に会いに行くためだった。

 そのときも、夏休みだった。

 だが、夏休みがあけても、都会とも田舎とも言えない我が家に帰るかどうかは、判らなかった。

 病を溜めに溜め込んだ父の療養のために訪れた田舎町に、しばらく住むことになるのか、それとも戻るのか。誰もが、その問題をぎりぎりまで棚上げしようとしていた。

「っ!」

 木の根なのか草の根なのか、それとも全く別物か、足を取られてこけかけた。咄嗟に伸ばされた手が、ざらりとした木肌を掴む。

「みっともないなぁ、何やってる」

 降ってきた声は、声変わりもきていないような、子供のもの。

 いくら山に慣れた地元の子供たちも、夜に山に踏み入ることはないと聞いていた。仲良くなった子供ら自身が言ったのだし、実際に登ってみて、当たり前だと実感した。

 夜の山なんて、歩けたものじゃない。それは、山に慣れていない負け惜しみではない。

「山は、夜は妖の、朝は神の、昼は獣の領域だ。ヒトの踏み入る余地なんてない。せいぜいが、昼に、獣たちにちょっと目こぼししてもらうくらいのものだ。知らないわけじゃぁないだろう?」

 この田舎町に来て気付いた月の明るさも、今は助けにはならない。木々が繁り、ひさしになってしまうのだ。おかげで、声の主の位置も、闇に溶け込んでよく判らない。声も、山と地面と空に拡散して標にはならない。

 そのときには、「彼」が人ではないと、どこかで確信していた。

「……まつりが、あると聞いたんだ。そこには、ときどきだけれどどんな病気もなおすくすりが売られている、って」

「トウセンが目当てかぁ。誰に聞いた?」

「…知らない」

 嘘ではなく、本当のことだった。

 仲良くなった近所の子供たちとかくれんぼをしていて、隠れていた繁みの中で、たまたま会話を聞いたのだ。姿かたちすら、目にしていない。

 声は、まぁいいや、と呟いた。

「人里に近付くとなれば、キリやホヅミ、ハナといったところか。それにしても、お前も、ちょっと聞いただけでよく来たよなぁ。知らないだろうが、妖の市って言ったら、ヒトの子なんて、見つかったらとっ?まって殺されても文句は言えないんだぞ?」

「知ってる」

 それも、話していた者たちは言っていた。だから、相応の覚悟はしていたつもりだ。

 だが声は、きっぱりと首を振った。

「いいや、知らない。なんとかなると思ってるんだろう? 無理だ。判る」

「…でも。オレは…」

 本当に効き目があるのなら、父に。

 こちらに住むかどうかの結論を皆がとおざけているのは、それだけ、父の寿命が尽きかけていると、誰もが感じていたからだった。急いで手続きをとって、夏休みが終わったときには、その必要はなくなっているかもしれない。また、転校しても、すぐに戻るかもしれない。

 父は元々、生まれたときから長くは生きられないだろうと、方々で言われていたらしい。

 床に伏しながらも、子供の顔が見られるなんて上出来じゃないかと、嬉しそうに、淋しそうに、申し訳なさそうに笑っていた。母は、その笑顔を見るたびに、そっと姿を消していた。

「ふぅん。おい、ヒトの子。名前は?」

「え」

「ないのか?」

「あ、ある。一郎」

「……そうか」

 何故か、急に声が大人びて聞こえた。しかし、そんなものは一瞬だった。

「一郎、ついて来い。トウセンがあるかどうかは判らないが、少しくらいなら見せてやる。ただし、絶対に声を出すな。手を離しても駄目だ。守れるか?」

 言いながら、手が握られた。夜とはいえ夏の盛りだというのに、ひやりと冷たい手だった。まだ小さくて、重ねられた掌の大きさは、そう変わらない。

 ごくりと、つばを飲み込む音が聞こえた気がした。心臓がうるさかった。

「きみは――アヤカシ、なのか?」

「妖であり、妖でなし。神であり、神でなし。人であり、人でなし。そんなことよりも、どうする、守れるか?」

「――守る」

「言ったな。では俺は、一郎が約束を守る間は、その身を妖から隠し、守ってやる。だが、声を出すか手を離せば、後は知らない。そこから先は、見つけた妖か、気まぐれな神の領分だ。――目をつぶってろ」

 半ば唐突な声は告げ、一郎の反応を待つことなく、動き出した。

「えっ、ちょっ」

「それと、もう口を利くな。俺がいいと言うまでは、黙っていろ」

 慌てて、空いている右の手で口を塞ぎ、しっかりと目をつぶった。

 「彼」の言うことを疑う気持ちなど、微塵もなかった。ただ、本当に目的のところに連れて行ってもらえるのかは、疑問だったのだが。

 風の音と、虫や獣の声、草や木々を駆け抜ける音。

 明らかなそれらの音に反して、山中を駆けているという感覚はなかった。ただ、目をつぶってできた一筋の光もない闇の中で、足踏みをするように、しかし確実に駆けていく。そのときは、握られた手だけが、世界と繋がっていた。

「――目を開けてもいいぞ。口は開くな」

 言われて目を開けると、そこは、ほのかに光っていた。

 光といっても、電灯のような攻撃的なものではない。闇に溶け込みながら、空間自体が白っぽさを持っているかのような、光。例えるなら、夜光虫や光苔の発するものに似ていたかもしれない。

 全てを見通すのに十分ではないが、先ほどまでの闇に比べると、ずっと明るく思えた。ものを見分けるのも、近付けば、そう苦労はしない。

 その、山の中にぽっかりと開いた広間のような場所に、何か奇妙なものたちが、思い思いに店を広げていた。

「おや、イチ。珍しいねぇ。お前、ここを嫌ってなかったかい?」

「あんまり好きじゃないだけだ。においがひどいからな。よく、平気でいられる」

「尖るのもいい加減におしよ。イチ、お前、ヒモロ神のご厚意に縋っていると判っているのかい」

「だから、大人しくしてるだろう?」

 光の中に浮かび上がった少年は、ナメクジとヒトに化けそこなったキツネが合わさったような女――に、見えた――の、いくらか意地悪げな調子にも、飄々と声を返していた。

 少年は、掌の大きさや声からも想像がついたように、年齢もあまり変わらないように見えた。十前後といったところだろう。

 キツネナメクジは、糸のような目を、更に横に引き伸ばした。

「まあいいさ。どうせ来たんだ、楽しんでいきな」

「ああ、そうさせてもらう」 

 そうして少年は、すたすたとキツネナメクジの元を離れた。

 ヒモロの神とは何のことだ、厚意に縋っているとは何なのか、君は何者なのかと、疑問は大いに膨れ上がったが、声は出せない。

 草地に直に座り、あるいは布か獣の皮のようなものを広げた「屋台」では、色々と奇妙なものが並べられていた。

 例えば、溶けかけたガラスのような丸い物体。二枚貝の下から、ぎょろりとカタツムリのつのを大きくしたような目をのぞかせる生き物。何の変哲もないような、小ぶりの切り株。見たこともない、りんごに似た果物のようなものもあった。

 少年は、それらを見るために立ち止まることも許さず、目的地があるかのように真っ直ぐに、人でない者たちの間を抜け、歩んでいく。

 やがて、広間をぐるりと取り囲む木の幹に背を預けた、顔面も白髪に覆われた老人のような者のところで立ち止まった。

「ハクジャク、トウセンはまだ扱ってるか?」

「おう、まだおったか」

 毛むくじゃらは少年の問いには答えず、にたりと笑った、ようだった。

 足元には、大人が丸ごと包めそうな絞り染めの風呂敷が広げられ、上にはちょこんと、得体の知れない粉末やら木の根やらが転がされている。

「トウセン、あるか?」

「ああ、あれか。お前、会うたときもそう言うていたなあ」

「昔話なんか訊いてない。あるのか、ないのか?」

「ああ。あるとも。ほしいか?」

「……ああ」

 話しながら、少年が緊張しているのが判った。握られた手が、ぎゅうと強く掴まれる。

 毛むくじゃらはまた、にたり、と笑った。

「では、代価にお前が右手に握っているものを寄越せ」

「なに――」

 少年は、凍りついたように息を飲んだ。 

「白を切るな、時間の無駄だ。見えずとも判るわ、どうせ、ヒトだろう。昔が懐かしいか。ヒトに関わるは、そのせいか。どうせ、トウセンもそのためであろう? なれば、引き換えだ。そうでなくてはやれん」

 毛むくじゃらは淡々と、悪意を込めて言い放った。決して大きな声ではなかったが、よく通った。いつの間にか、辺りにいたものたちは、面白がるようにこちらを見ていた。

 少年は、強く手を握りしめた。力を緩めれば、抜けていってしまうとでも言うように。

 だが、そんな心配はなかった。父の病が治るのと引き換えなら、母があんなかおをしなくていいのならと、考えないではなかったが、それよりも、恐怖が強かった。声を出すことも、手を離すことも、できそうにはなかった。

「ハクジャク」

「名を呼ぶな、ヒトの成れの果てが。お前など、ヒモロ様のきまぐれがなければ、疾うに一片も残さずに消え失せていたものを」

「――そうか。もういい。それほどに俺やヒトを嫌うなら、貴重な薬など分けたくはないだろうな。他を当たる。声をかけて悪かった」

 ぼんやりとした光があおみを帯びているせいか、少年の顔は、青ざめて見えた。押しつぶすような声を押し出すと、少年は、踵を返そうとした。

「お前、このままで無事に戻れると思うたか。お前はどう考えていたかは知らぬが味見方などおらん。お前は、我らの仲間ではないからな」

 妖であり、妖でなし。人であり、人でなし。

 少年の言っていた言葉は、本当だったのだろう。周りを取り囲む者たちは、あからさまな敵意を露にする者は少なくても、助けてくれそうな者も見当たらなかった。

 そのとき、少年は、呟くように声をかけてきた。

「守ると、約束したな」

 何のことかと思わず顔を見ると、凍りついた横顔は、笑うように口の端を引き上げた。

「ヒモロ神、眷属が危機に陥っているぞ! 見捨てるつもりか!?」

「…やれ。うるさいのを拾ってしまった」

 星明かりの闇空に向かって放たれた少年の声に応じるようにして、涼やかな声が降って来た。

 次いで、月光をまとったかのような男――多分――が姿を現す。

 取り囲んでいた者たちは、とりどりに声を漏らした。

「今宵は、市だったな。これが迷惑をかけたようで、申し訳なく思う」

「そう思われるなら、ヒモロの神。夜は、我らの時間。手出しは無用に願いたい」

 ずいと前に出たのは、毛むくじゃらだった。恭しく腰をかがめながらも、ぎらりとした瞳は、冷たい。

 だがヒモロ神は、穏やかに凄みのある笑みを浮かべた。

「そうしたいところだが、これは吾の眷属でな。捨て置くわけにもいかない」

「だが、それの連れているものは違うでしょう」

「ふむ」

 すっと、視線がこちらに向く。

 ぎくりと身を強張らせていると、少年が、手を握ったまま庇うように立ち塞がった。

 それを受けて、ヒモロ神は、優美に肩をすくめた。

「誓いを立てたようだな」

「ああ」

「では、彼も吾の領分だ。悪いな」  

 そうしてヒモロ神がほっそりとした手を上げると、景色は一変した。そのとき、「イチ、懲りるんじゃないよ」という声が聞こえたような気もした。キツネナメクジの声のようにも思えた。

「さて、イチ。釈明といこうか?」

 あの不思議な光が消え失せ、闇に戻った山の中で、先ほどよりも雰囲気の変わったヒモロ神は言った。面白がるような声だった。

 少年は、まだ手を離さずにいた。

「こいつが」

「イチ。君が律儀に誓いを守っているものだから、彼の姿が見えないよ」

「…こいつを、守るか?」

「そうか。彼が無事に家にたどり着くよう、配慮しよう。少なくとも今夜は、この山の者に危害を加えられることはないと約束しよう」

 その言葉を聞いて、少年はようやく手を離した。

「やあ、ようやく姿が見えた。はじめまして、少年。私は、この山にすむ者だ。名は聞いているだろう、ヒモロというのが、そのうちのひとつだ」

 穏やかにそう言って、声を転じる。

「イチ、それで君は、彼を巻き込んで何をしていたのかな?」

「俺は」

「オレが、頼んだんです! 悪いのはオレで、だから、怒るならオレにしてください」

 言ったものの、言わなければよかったという後悔が、口にしながらも湧いてきていた。そもそも山に入った目的も果たせず、ここでどうにかなるのは、厭だった。だからといって、少年を身代わりにすることもできない。

 ところが、ヒモロ神と少年は揃って、吹き出した。ひとしきり、遠慮なく笑う。

「俺がいなくなって困るのは、ヒモロの神の方だよな」

「おや? ろくに力もない、問題ばかり引き起こす眷族がいなくなっても、厄介ごとが減るくらいしか思い浮かばないが?」

「よく言う。俺が来るまで、枯れ藪に突っ込んでそのまま一日は身動き取れなかったような格好でいたくせに。あれに戻りたいなんて、変なことを言うもんだ」

 軽い調子で言い合う様子は、とても親しげだった。

 だがふと、少年は、調子を落とした。

「…ごめん、一郎。トウセン、無理だった」

「いや…ありがとう」

「さて、これが何か判るかな?」

 ふうと、甘いにおいがした。隣で、ぎょっとした声が上がる。

「トウセン! なんで!?」

「ふふふ、私を何だと思っているのかな。軽んじられるようなことを、ただで許すわけもないだろう?」

「そういや、そういう奴だったよな!」

「…イチ。それは、褒め言葉ととっていいのかな」

 そうして、甘いにおいの元を、手に押し付けられるようにして渡された。

「いいの?」

「ああ。俺が持っていても仕方がない」

「…どうして、君はそこまで手を貸してくれるの?」

 ヒモロの神は姿を消したのか、黙っているのだけなのか、よく判らなかった。

 少年は、濃い闇の向こうで、考えるような、悩むような間を置いていた。しかし、そこにはいるのだと感じられた。

「…もう一回、効き目があるかどうか判らないけど。次郎によろしくな」

「え」

 闇は姿を変え、いつの間にか、山は遠くにあった。

 ぽつねんと佇む切れかけの水銀灯は、果てしない闇の中で、薄っぺらそうな闇色の影を、地面に落としていた。 


 何故か父は、トウセンの甘さを知っていた。そうして、十数年後。この世を去った。



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