非日常の日常風景  

名前のないヒト受取人不在熱波ミドリのオリ綺麗な空




名前のないヒト

2006/2/23

 いつものように仕事をしていたら、これもいつものように、部長が、履歴書を渡してきた。
「バイトやから」
 はい、と応えて受け取った。
 私は、小さな工場で事務をしている。種類こそ多いものの、雑務として括れる仕事の中に、タイムカードの発行というものがある。軽く見積もっても、もう十年は使っているという小さな機械に、簡単なボタン操作で、名前やシフトを叩き込む。
 タイムカードがなければ給与計算はできず、必然、人の出はともかく入りは、確実に、私を通して管理されることになる。
 一時、それなりの都市が生活圏だった私からすると安く思える時給でも、受け容れる年齢が幅広いからか近所で働きたいのか、意外にも、バイト・パートの希望者は多い。最も、立ちっ放しの勤務が辛いのか、辞める人も多いのだけれど。
 受け取った履歴書には、写真がなかった。年齢は六十五。
 正社員なら退職年齢を過ぎてるじゃない、と、応募してきた被雇用者にか採用を決めた部長にか、少々呆れながら、ざっと履歴書に目を通そうとして、ふと止まる。今、何か引っかかった――。
「あの。部長、名前が書いてないんですけど」
「ああ、ないらしいわ」
「え?」
 あってはならないはずの、長方形の空白。だが部長は平然と、明日からな、と告げて、背を向けて行ってしまった。
 名前のない人のタイムカードを、どうやって作れと言うのだろう。

 *  *  *

 結局、カードは名前を入れずに作った。
 エラーが出るかと思ったが、そんなことはなかった。私よりも長くこの会社に勤めている小さな機械は、その空白を、異常とは捉えなかったらしい。
 作業員には名札も作るのだが、悩んだ末に、空白のプレートを差し込んでおいた。
 かの人とは顔を会わせていないが、用意しておいた制服が持ち去られ、タイムカードに順調に時刻が打ち込まれているところを見ると、ちゃんと出勤しているようだった。

 *  *  *

 すみません、とその人は声をかけてきた。
「辞めることになったので、制服をお返ししたいのですが」
「あ、はい。お預かりします」
 クリーニングに出してくれたらしく、薄いビニール袋に包まれた制服が渡された。仕舞う場所があったかなと考えながら、受け取る。
 ちょこんと乗せられた、空白の名札が目に入った。
 まさか――と思った。
「あの――えっと」
「はい?」
「……すみません、お名前は?」
「ああ。ないんです」
 にこやかに微笑んで、彼は去って行った。

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受取人不在

2007/2/23

 彼女は、私が手紙を投函した正にその頃に、絶命したらしい。
 私がそのことを知ったのは、一本の電話だった。
 遠く離れていても瞬時に声を伝えるこの道具は、なんて便利なんだろう。私の出した手紙は、まだ届いていないというのに。

 彼女とは、小・中・高ともに同じ学校で、だけど、高校生になるまで、同じクラスにも部活にもなったことがない。親しくなったのは、中学一年のとき。体育の合同クラスで一緒になって。
 話が面白かった。
 喋っていて、ちゃんとそれを受けて、思ってもいない方向へと打ち返してくれる。だから、他愛もない雑談が弾んだ。
 ずっと一緒にいるのではなくて、でも一緒にいたいと思える、そんな友人だった。
 ――ああ。どうして、過去形?

 人が呆気なく死ぬと、知っているつもりだった。平和と言われる日本でだって、若い子も幼い子も死んでいく。
「…ご愁傷様でした」
 本当に言葉でいいのかと、どこかで冷静に焦る声が聞こえる。
 香典を払うのは、初めてだった。払う必要のないほどに身内の葬儀にしか、まだ出席したことがなかった。
 まさか、あんたが初めてになるなんてね。黒く縁取られた写真を見上げて、そう思う。

 通夜には、間に合わなかった。
 仕事の区切りを付けて有給をとって、地元に戻る。ただそれだけのことに、時間がかかってしまった。
 久しぶりの友人何人かに会って、式後に話したりもした。
 ぽかりと一人分空いているような気がしながら、思い出話や近況を話し合い、また時間を作って集まろうと言って、別れた。
 あと何回、彼女たちと会えるだろうと、考えた。縁起でもない。

 あの手紙はどうなっただろうと、そう思ったのは、少し経ってからのことだった。
 彼女に読めるはずもなかった、手紙。この間会った友人たちに話したような、他愛もない話題を書き綴ったはずのそれ。既に、何を書いたのかもろくに思い出せない。彼女だったら、どんな反応をくれただろう。
 連絡をもらった時点ではまだ届いていなかったらしいが、いい加減、着いているだろう。中を見られることはないだろうが、捨てるか送り返すかしてもらおうと、受話器を手に取った。

 彼女との付き合いはそこそこの年数になるというのに、私は、その母親をよく知らない。
 そもそも、彼女の家に遊びに行ったこともないのだ。逆はあったのにと考えると、少し、不思議な気もした。
 私は少し緊張していたけれど、一瞬で距離を無視できてしまう魔法の道具は、いつもと変わることなく作動した。

 手紙は、まだ届いていないという。

 もし届いたら捨ててくださいと言って、受話器を置いた。もちろん、社会人として最低限の礼儀や儀礼は守って、挨拶も口にして。
 でも本当は、酷く動揺していた。
 十中八九、郵便事故に決まっている。うっかりミスや職員の怠慢や人災で、意外にそういうことは起こるらしい。
 でも、でもと、声が囁きかける。
 彼女がこの世を去るのとほとんど時を同じくして出した、手紙。もしも、彼女が手にしていたら。
 なんとなく愉快になって、一人きりの部屋で、笑ってしまう。
 だけどきっと、返信はないのだ。
 どうやったら化けて出られるだろうかと、彼女は頭を捻っているだろうか。それとも、返事を忘れているだろうか。
 彼女はどうも、後で返事を、と思っているうちに出したつもりになるらしく、私はいつも、半ば返事を期待していなかった。どうで会ったときには話せるんだ、と、そう思っていた。

 ぽとりと落ちた雫に、濡れた手に、ああ、泣いている、と思った。
 葬式でもあまり泣かなかったのに。報せを聞いても、涙なんて出なかったのに。
「あああぁ……」
 もういない。
 手紙を出しても、返事は、来ないかもしれないではなくて、確実に返らない。魔法の電話でさえ、繋がらない。会って話すなんて、どうやったらできるのか。化けて出てきてくれて、それは本当に、私の知っている彼女なのだろうか。

 そうして私は、呼吸困難になるくらいに、泣いた。

 後日、どうしたわけか手紙は、私の元に戻ってきた。彼女の母が送り返したわけではないらしい。料金不足でも、宛名間違いでもない。
 まるで届け人がもういないと知っているみたいだと、私は、少しだけ笑った。涙がこぼれた。

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熱波

2007/8/25

 それは、暑い日だった。
 梅雨前だと言うのに夏も真っ青の、夏日。慌てて冷房のスイッチを入れたものの、かび臭さ交じりの冷気に、皆、どこか呆然とさえしていた。あまり冷えず、壊れてさえいそうだった。
 昼過ぎ。夕方の前。それは起こった。
「え?」
「えええっ?」
「ぅわーっ!」
「ギャー!!」
 各所で上がる疑問や悲鳴。一際早く、大きく上がった声は、事務所に隣接する給湯室からだった。
 突然の停電、それに伴う作業中のパソコンの暗黒画面。
「いやーっ」
 デスクトップの調子が悪く、修理の間ノートパソコンを使っていた一人が、給湯室の悲鳴に我に返り、とりあえず作業の保存をして席を立った。
 思いがけないことにフリーズした同僚たちが、我に返り始めて面倒そうだ、というのもある。
「どうかした…?」
「せ、せんぱいーっ」
 何故か湯気の立つ給湯室で、今にも泣き出しそうな女子社員が一人。そして、水浸し。いや――湯気と熱から察するに――お湯浸し。
「…何、したの…?」
「ごめんなさいっ」
 泣き出しそうな彼女は、語った。
 氷を、作ろうとしたらしい。暑いから気分だけでも涼しく、と思ったらしい。そこまではいい。
 ところがそこで何故か、水のカルキ抜きをしなければと、思い立ったらしい。いや、それもいい。
 しかし彼女は、やかんを火にかけたまま、うっかりと忘れてしまっていたらしい。思い出したのはずいぶんと経ってから。慌てて走った彼女は、その勢いのまま――焦って取り上げたやかんから手を滑らせ、湯をぶちまけた。
 電気のスイッチから入った湯が、回線をショートさせた、らしい。
 彼女自身は湯を被っていないのが、いっそ見事だ。
「ど、ど、どどっ、どうしましょう〜〜っ」
「とりあえず謝って…窓でも、開けようか…?」
 それは、暑い日だった。

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ミドリのオリ

2008/4/10

 するりと、ジャングルジムの冷たいパイプを緑の蔓が這う。
 驚くべき速さで伸びる蔓は、あっという間にジャングルジムを覆ってしまった。
 月が冴え冴えと、それを見下ろしていた。

 ゆっくりと、沙絵は眼を開けた。この夢を見るのは決まって月の輝く夜で、家には誰もいない。
 それでも、音を立てないように起き上がるのは何故だろう。
 夜着の衣擦れの音さえ大きく聞こえて、沙絵は、思わず息を殺して耳をすました。そんな自分に、苦笑いがこぼれ落ちる。馬鹿みたいだ。このまま姿を消したところで、翌朝まで、下手をすると数日くらいは、誰に気付かれることもないだろうのに。
 薄墨色のワンピースに着替えて、家を出る。長い髪を束ねようかとも思ったが、面倒で止めた。
 近くの公園は、滑り台と砂場、四つのブランコ、ジャングルジムがある。昼間の忘れ物か、砂場にプラスチックのスコップが転がっていた。
 遊具はどれもけばけばしくさえ感じられるとりどりの色で塗り固められていて、人工灯の下で悪夢のような姿を見せている。沙絵の幼い頃には、青一色だったような気がするのに。
 ふらりと、夜の底を泳ぐようにして、沙絵はジャングルジムに近付いた。公園の端にあるそれは、じっと黙り込んでいる。
「あれ? 小山内さん?」
 場違いに明るい声に、沙絵はぎくりと身を強張らせた。上から降るそれは、同年代の男のものだった。
 逃げようか、と迷う間に白い手が下りて来て、顔を上げた沙絵には、月を背負った若い男の顔が見えた。
「――――佐木君」 
「あ、覚えててくれた。嬉しいな」
 にっこりと笑う顔は、中学時代からの同級生のものだった。三年ほど前まで、机を並べて授業を受けていたこともある。同じ学級委員だったため、覚えていただけのことだ。
 佐木は、するりと体を戻すと、ジャングルジムの上から沙絵を手招いた。きょとんと見詰めると、あれ違った、と首を傾げた。
「ここ、登りに来たのかと」
「え」
「高い建物ないし、上向いたら世界独り占めしたみたいで気持ちいいから。小山内さんも、それで来たのかと。ごめん、勘違い?」
「――ううん。そんなこと、ない」
「じゃあ、どうぞ。二人くらい大丈夫でしょ」
 無邪気な笑顔につられて笑みを返すと、沙絵は、今となっては小さく感じるジャングルジムを、空に向けて登った。
 ひんやりとした金属に、一歩踏み出すごとに司会がわずかでも高くなる。一番上でさえ飛び降りてもなんとかなるだろう高さなのに、随分と気分が変わるから不思議だ。
 登りきると少しの間、春風に吹かれ、近くに佐木がいることも忘れた。四角い鉄棒の間から見える雑草に、いつものように目が行く。
「小山内さん、家、この近く?」
 随分たって、佐木が口を開いた。
 ついつい間が開いてしまった返事は決まりが悪かったが、佐木は気にしていないようだった。そこでようやく、沙絵は、佐木の存在を邪魔に感じていないことに気付いた。高校時代から、空気のような人だと感じていたことを思い出す。
 自由で、重みを感じずにすむ人。
「俺はね、バイトの帰り。一応学生だからって、十二時くらいには帰してくれるし、ご飯出るし、結構いい感じで。ここ、途中で息抜きに丁度いいんだ」
 そう言えば、佐木は、中学生の頃から新聞配達のアルバイトをしていたという。家庭の事情なのかもしれないが、沙絵はよく知らない。 
 水銀灯の光を浴びた佐木の横顔は、心なし、やつれているようにも見えた。
「独り占めって、子どもっぽいけど。気分晴れるし」 
「私には、檻に見える」
 するりと零してしまった言葉に驚いたのは、沙絵自身だった。慌てて取り消そうとしたが、考え込むような佐木の眼を見てしまい、口を閉じる。
 そのまま沈黙がおとずれ、しかし意外にも、居心地の悪いものではなかった。
「見晴らしのいい檻だね」
 ぽつりと返った佐木の言葉。たしかに、骨組みだけで面は地面以外全て開いている。皮肉にも取れるが、夜気を愉しむように眼を細めた佐木からは、そんな気配は微塵も感じられなかった。
「夢を――見るの。ジャングルジムに緑の蔦が絡まって、伸びて、あっという間にジャングルジムは、ミドリを閉じ込めた箱になるの」
「きれいだろうね。見てみたい」 
 すとんと。心底、そう思っているだろう声。
 あまりにあっさりとした誠意あふれる応えに、沙絵は呆然とした。
 綺麗だと思ったことは一度もなかった。ただただあれは、わけのわからない悪夢で。公園まで来るのは、それが実現していないと安心するため。
 それを、佐木は。
「――そう、ね」 
 呟いて佐木を見ると、夢見るように空を見上げていた。やがて、沙絵の視線に気付くと、こっちを見て微笑した。

 見晴らしのいい、緑の檻。
 月光の下で私は、今日もその中に納まっている。
 いつか、気付くのだろう。まるでそれらに、力のない緑たちに、守られているようだと。

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綺麗な空

2008/6/2

 最近、この辺りはうるさい。華やかといった正の方向ではなく、もっと殺伐とした負の方向ににぎわっている。
 殺人未遂があった、らしい。
 しかし話題の焦点はそこではない。三年に亘る監禁、というところにある。被害者と同い年で、そこに少しひやりとした。
 男は、黙秘しているらしい。
 その間に事実と推測と憶測は飛び交い、別の何か大きな話題が提供されるまで、この狂宴は続くのだろう。そして、ここで終わっても別のどこかで行われる。
 そんな中で、男の素性は簡単に知れた。
 家族も含めていわゆるエリートで、大手の会社に勤めている――いた、らしい。事が露見して、当然のように解雇された。そして、我が家から徒歩二分の一軒家に住んでいた。エリートといっても結構しょぼい。
 両親は長期の海外出張でろくろく戻らず、男に兄弟はなく、ほぼ一人暮らし。
 少女は家出の常習犯で、家族は、今回は長いな、もう戻らないかもしれないな、という程度の認識だったらしい。失踪人届けも出されていなかったということだ。
 通報は、近所からの電話。ここも、我が家から徒歩二分程度だろう。
 被害者が血だらけで玄関に倒れていたところを、回覧板を持って行った隣家の主婦が、伝い出ていた血に気づいてのことだという。被害者は、一時は大量出血で生死の境をさまよったものの、今は大丈夫らしい。
 他にも、両者の間の生い立ちだといったものから、昔の似た事件を並べ立てたものと、山のように情報はあった。例によって、何々大の誰それといった人や作家が出てきて、いろんなことも言っている。
 はじめこそ、身近な事件に耳をすませていたものの、さすがに飽きた。おなか一杯。
 そんなときにふと、思い出した。
 「彼」に会ったことがある。
 ご近所だから当たり前といえば当たり前なのだけど、近所づきあいは母に任せきりで、お隣の人の顔すらろくに覚えていないため、テレビや新聞で繰り返し目にした顔にも、なんら反応を示してはいなかった。せいぜい、暗そうだけどそんなに変な顔じゃないんだから、こんなことしなくてもなあ、くらいか。
 多分あれは、一年ほど前。春というか初夏というか、そんな今の季節。
 だからあの時既に、「彼」は少女を監禁して、もてあそんでいたのだろう。
 ――うわあ、まぶしいなあ。
 すれ違いざまに聞こえた呟きにつられて、何事かと空を見上げた。ただ青空が広がるだけのそこに異常は見られなかった。
 ――きれいですね。こんな晴天、久しぶりだ。
 世間話の調子で、「彼」はそう言った。確かに前日まで曇りや小雨続きで、久々に見上げた空は、とてつもなく綺麗だった。
 そうですね、とだけ返して、だけどお互いの間の空気だけは妙に和やかに、別れた。
 それだけの、邂逅。
 たったそれだけのこと。
 でも、うっかりと見過ごしかけた綺麗な空を教えてくれた彼は、とても酷いことをしていたのに、そんなことは微塵も悟らせずに日々をすごしていた。私の――目の前にすら、立っていた。
 綺麗な空を発見できる人なのに、何故だろうと、少しだけ考えてしまった。

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