金魚と恋


 空はからりと晴れている。気象庁の宣言はどうなのか知らないが、梅雨は明けたのかもしれない。珍しく、肌にまとわりつくような湿気もない。

 そこで俺は、いつものように実家から金魚をくすねて道端で売り捌いていた。

「えー、ちっちゃーい。これ子ども?」

「子どももおるけど大人もおるよー。きれーやろー。丈夫な種類やから、結構世話も簡単やで」

「えー、そーなんや。ふーん、かわいー」

 通りすがりの女子中学生は、そう言って、小さなプラスチック容器をつついた。中に一匹ずつ入っている金魚たちは、素知らぬ様子で、狭い水の中で優雅にたゆたう。

 女の子たちは、笑いかけると素直に笑い返してくれる。ああ、可愛い。

 ふと、一人が俺の横の小瓶に気付いた。

「それ見せて?」

「あー、ごめんこれ、俺のツレやねん」

「ええ?」

 冗談と思ったのか、他の子たちもけらけらと笑う。俺も、にっこりと笑った。壜の中のアカネだけが、不満そうにくるくると泳いだ。  




「なーアカネー。アカネさーん、そろそろ機嫌なおしてくれへんかー? いいやん、ツレ。恋人とか夫婦でも言うやん?」

 返事の言葉はない。

 そりゃあ、あるはずがない。何せ、金魚だ。むしろ、人の言葉が喋れたら凄い。誰かに知られた途端に、俺の元から掻っ攫われてしまうのは目に見えている。まあ、違うからそんな心配はないんだけど。

 ただちらりと、俺を見た。仕方ないなあ、とでも言うように。そうして、優雅に尾びれを揺らした。

 過剰なまでに美しい尾びれは、人が鑑賞するためだけに生み出された。金魚は、愛玩と鑑賞のために、ただそれだけのために、試行錯誤を重ねて生み出された。その間に、どれだけの金魚未満たちが失敗作として惜しみも悲しまれることもなく命を落としていったのか。

 人は傲慢で、身勝手だ。

 でもそのおかげで、俺はアカネに出会えたわけで。とりあえず、金魚未満たちが幸せに寿命を全うしていたらいいと思う。

「なあ、アカネ。お前は俺より先に逝くんやろな。…できるだけ長く生きてくれな」

 金魚を相手に常軌を逸している。きっと、数週間前の俺ならそう思う。

 アカネは、いつものように、金魚を始め観賞用の魚類の卸をしている実家から小遣い稼ぎにちょろまかした金魚の中にいた。一匹ずつ容器に分け入れようとしていて、眼が合った瞬間に…俺は、それまでの常識をどこかにうっちゃっていた。

 恥ずかしげもなく言えば、恋に落ちた。

 以来、俺は大抵の場所にアカネを連れて行く。そんなことがアカネの身にとっていいことじゃないのは判ってるけど、置いて行けば機嫌を悪くする。俺も、淋しい。

 人よりは退化しているだろう眼に、アカネはちゃんと俺を映してくれる。怒ったり、喜んだり。水の中に指を入れると、そっと口付けてもくれる。

 誰の目にどう映ろうと、例え言葉をくれなくても、アカネは俺の恋人だ。…恋魚?

「アカネー、いい天気やなー」

 狭っ苦しいけど、男一人が暮らすならまあ十分。そんなところで、窓辺にアカネのいる金魚鉢を置いてぼうっとする。それだけで生きて行けたらどんなに幸せだろう。

 でも人生、それで済むわけがない。




 ねっとりとした空気を掻き乱して、人込みは飽きることなく続いていた。浴衣姿も結構多い。そんな中で俺は、お客さんに文句を言われた。

「なあ兄ちゃん、これ不良品ちゃう? 一匹もすくえんかったで。紙、特別製とかちゃうん?」

「うーん、それならあっちのお客さんが二杯目突入してるんはなんでやろな?」

 受け皿が小さくてこれ以上はかわいそうだから、と預かっている一杯目と、そろそろこっちも換え時になりそうな二杯目を手にしている青年を示す。小学生らしき少年は、頬を膨らませ、も一回、と小銭を突き出した。

 はいよ、と二枚目のポイとかいう名前らしい、金魚すくい定番のあれを渡してやる。金魚すくい名人(推定)は、予想通り三杯目に突入した。

「あっ、捕れた!」

 少年は歓声を上げ、もはや金魚は掬えそうにない破れたポイと、出目金が一匹だけ入った受け皿を誇らしげに掲げて見せた。

 おー、と手を叩いてみせる。

 掬った金魚をビニールの小袋に移して持たせてやる。一応、飼う上での注意も聞かせたが、どのくらい覚えているか怪しいものだ。長生きしろよ、と密かに心の中でエールを送る。

 最近では、金魚を掬うだけ掬わせて、渡すのは数に応じて別の景品、という店もあるが、ここは違うらしい。

 らしい、というのは、俺の店ではないからだ。

 道端で金魚を売り捌いていて知り合った…特殊業の人を通して知り合ったテキ屋の友人に、ちょっと店番を頼まれたのだ。金魚の扱いなら慣れてるだろ、と気軽に頼まれたが、実家にいるのとは違って衰弱した金魚たちを見るのは、ちょっとばかり忍びない。

 少年を見送った後にも客は途切れることなくやって来て、見るだけの人も多くて、あー祭りっぽいなーと何だか楽しい。

 やがて、金魚すくい名人は、枠だけになったポイを差し出した。受け皿は、五杯目に突入していた。

「えー、と。すんません、十匹以上は、なんぼすくっても全部は持って帰ってもらえへんのですけど、どうしましょ?」

 ちゃんと書いてあります、と無言で主張すべく俺の後ろにある張り紙を指し示す。うん、と、青年は頷いた。

 そうして淡々と的確に、五杯の受け皿の中を泳ぐ金魚たちから活きのいいのを十匹、選び抜く。

「―――」

 言葉を失った。

 何故、アカネがそこにいる。

 見間違えるはずのない赤い金魚が、その他の金魚に紛れて、青年の選んだ中にいた。

「ちょっ、まっ、お客さ…」

 ひょいひょいと選ばれた金魚を網で掬って移していた俺は、一度動きを止めた後で慌てて顔を上げた。こいつは売り物じゃない、と言いかけたところで、青年は俺の腕を掴んで網を動かした。既に網の中にいたアカネは、すんなりとビニール袋の中に移る。

 呆然としてビニール越しにアカネを見ると、一度確かに眼が合ったはずなのに、ふいと逸らされた。尾びれが優雅に、揺れる。

 青年が持ち去るのをビニール越しに見つめていたが、一度も、アカネは俺を振り返らなかった。




 ふらふらと人込みを歩いていると、当然のようにあちこちで人にぶつかった。というかむしろ、人に押される形で、俺は移動していた。

 何だろう。これは、どんな悪夢だろう。

 あの後、本来の屋台の主を携帯電話で呼びつけて交代して、もしかして俺の見間違いであれはアカネじゃなかっただろうかと探し回ったが、そんなことはなかった。いつもアカネのいたガラス瓶は、空だった。

 俺に店番を任せてナンパに精を出していた男を怒鳴りつける気力もない。祭りの空気に浮かれていたのは、俺も同じだ。そんなだから愛想をつかされたのだろうか。

 青年を探そうとも思ったが、俺に眼もくれなかったアカネを思い出すと、動き出せなかった。

「わっ」

「すみません」

 ほぼ反射で呟いてすれ違おうとしたら、突然腕を掴まれた。何事かと見てみると、同い年くらいの浴衣の女だった。何故か、驚いた顔をしている。

 眼が合うと、はっとしたように手を離す。が、視線は外れない。

「え、えっと、あの、えーっと…沢口と申します」

「はあ…?」

 溜息に似た声を返すと、沢口と名乗った女は慌てたように、何故か、小学校、中学校、高校、大学の名を挙げた。その後で、これも慌てたように続ける。

「の、どれかに通ってませんでした?」

 なんだこの女は、と思いながら、小学校と中学校が被っていたのでそう告げる。と、今何歳ですか名前はっ、と、意気込んで口を開く。

 首を傾げて、ああそれよりも、と、回りの鈍い頭で考える。

「とりあえず、どっか移らへん? 俺ら、流れむちゃくちゃ邪魔してるみたい」

「あ」

 ようやく状況に気付いたらしく、女は、こくこくと頷いた。女の頭からは、妙に甘ったるい匂いがした。




「あー気持ちいいっ」

 女は、頭に蛇口からざぶざぶと流れ出る水を浴びながら、本当に気持ち良さそうに言った。とりあえず人込みは離れたが人が全くいないわけではなく、訝しげな視線も気にせずに。 

 タオルを借りてきた俺は、呆れてそれを見ていた。

「あ。ありがとう! ごめんな、何か妙なことになっちゃって」

 照れたように笑って、髪から水を滴らせながら、女は笑った。俺と同じ年なら三十も近いだろうに、妙に幼く見える。

 豪快に髪を拭くと、女は手櫛で長い髪を整え、浴衣に飛んだ水をタオルで軽く押さえた。

「…何でカキ氷なんか被ったんや?」

「ちょっと理不尽に振られて、思わず平手打ちしたらカッとなったあいつに投げつけられて」

「酷いな」

「んー、でもアッパーで殴り返したし。とんとんかな。あ、二股かけてたんは許せへんけど」 

 さばさばとした様子は、無理をしているようには見えなかった。そうして、じっと俺を見詰める。

「うーん、やっぱり見覚えがある。絶対、どっかで会ってるんやと思うんやけど…仕事関係じゃないやろうし、やっぱり年と名前、教えて」

「て言うかあんた誰」

「え? 名前…」

「苗字しか聞いてへん」

 あらら、と少年のように笑って、女は軽く頭を下げた。ごめんなさい、と重ねる。

「沢口茜、事務業やってます。この名前、聞き覚えない?」

 茜、と聞いて喪失感が襲う。アカネ。

 女は、俺を見つめたまま首を傾げた。その動作に我に返って、とりあえず首を振った。ついでに、年と名前も教えてやる。

 ぽかんとした顔をした。てっきり勘違いだったのだろうと思ったら、突然大声を上げた。

「金魚屋!」 

 今度はこちらがぽかんとする。懐かしすぎるあだ名だ。女は、突然の過去の襲来に呆然とした俺に構わずばしばしと肩を叩いてきた。女の背は低く、手を伸ばして。

「わー、うそ、何年ぶり? えーっと中三が十五で…えーっ、もう十年以上前? うわー、年取るわー」

「…ちょっと待て、知り合い?」

「ひっどー、覚えてないんや。小学生のときは結構遊んだのに。ハラキとかユッキーとかと一緒に家行ったこともあるし。…まあ、十年以上前やもんなー。中学んときはほとんど喋らんかったし。顔も結構変わってるか。うち、髪短かったしなあ。ん? でもじゃあなんで、今の顔に見覚えあったんやろ」

 半ば呟くように、軽快に喋り倒す。何か、この感じには覚えがあった。それに…ハラキ? ユッキー?

 今となっては人生の前半に当たる小学生時代。挙げられたあだ名は、そこに縁があったはずだ。沢口の言う通りに。…サワグチ?

「…サワ、か?」

 ぱっと、沢口の顔が明るくなる。そもそも暗くはなかったはずなのに、段違いに明るい。そのわかりやすさは、昔と変わっていなかった。当時でさえ珍しかったくらいの、素直な単純さ。

「そう! 思い出した?」

「ああ…あのちびっ子」

「ちびっ子言うなー! むかつくー!」

 沢口は明るく怒るが、いつ性転換したんだ、という言葉を呑み込んだことは気付かれずに済んだようだ。

 俺のいい加減な記憶を徹底的に漁ってようやく、サワが女だったと思い出す。なるほど、なかなか思い出せなかったはずだ。だって、泥だらけも傷だらけも構わず体力余りまくりの野ザルみたいな男子に紛れて全く違和感のない奴だったんだ。

「凄い偶然、とか思ってテンション上がったのに! 金魚屋のあほー!」

 ぷい、と俺に背を向ける。着物売り場で見かけるような出来合いの帯じゃなく、どうも一から結んだ様子のオレンジと赤の帯が、弧を描いて俺の視線の端をよぎる。

 まるで子供用のような、白っぽい生地を金魚が泳ぐ浴衣。

 金魚。

 アカネ。

 俺は、アカネを見捨てたんだろうか。アカネに見捨てられたんだろうか。

 人間は――俺は、身勝手だ。




「何これ、金魚鉢?」

 ただのガラスの器になってしまったそれを、彼女は面白そうに見つめている。元恋魚の棲家だったと言ったら、どんな反応を見せるだろう。

 冗談と思って、笑うだろうか。あのときの中学生たちのように。

 でもそれは、事実だ。確かに俺は、アカネを愛していたし、愛されていたと、思う。

「話せば長くなる」

「へえ、どんな?」 

 長い髪を元気に揺らして、彼女は笑った。

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