「扉」が開くのが判った。
「扉」。
この世界と異界をつなぐ、通路。
その先でオレたちは、そこの生き物たちの些細な願いを叶えて、報酬を得る。報酬といっても、まあ――あちらの世界で言えば、おやつのようなもんだけど。
ある程度早い者勝ちの「扉」を目掛け、オレは、地面を蹴り出した。
殺風景な部屋だった。おまけにかすかな違和感があり、よくよく部屋の中を見返すと、窓がないからだと気付いた。天井には四角い枠があるが、あれも、窓ではなさそうだ。
「こんにちはー」
ああそうだった、と視線を向けると、そこに立つのはまだ子どもだった。
ウソだろ、こんなガキが「扉」を開いたのか? こんな、人形みたいなのが?
しかも、全然恐れてない。普通、覚悟決めてオレらを呼び出した奴でも、腰は引けてるもんだぞ。何しろこっちでは、命と引き換えなんて取引が常識扱いされてるようだし。別に、そこまで丸々はいらないんだが。胸焼けするしな。
しかし、遊び相手でも見つけたかのように嬉しげに、目を細めて笑う女。
長い髪は、あと少しで踵くらいまで届きそうだ。黒髪黒目でちょっと黄味がかった肌は、あじあとかいった地域の奴らだった気がする。
「はじめまして。あなた、悪魔なんだよね?」
「…ああ」
こちらでそう呼ばれているのは知っている。
オレの返事に一層に笑った子どもは、ちらりと掌に――掌に握りこんだ懐中時計に目をやって、小さく首を傾げた。
「見かけだけなら、ただのかっこいい男の人だね。もっとこう、悪魔だーって感じで威嚇しなくていいの? 大烏とかキマイラとか、動物の格好してる人とか、人の格好してても角つけてたり仮面つけてたりする人も多いよ?」
「な――?」
「あ。あたし、見かけよりも召還暦は長いんだよ。でもまだまだで、今の限界、三分だけなんだけどね!」
どこからどれだけ突っ込めがいいのか、少し、頭が止まる。
ん? 三分?
「…三分?」
「うん、魔方陣動かしてられるのが三分だけ。でもこれでも凄い成長したんだよ? はじめなんて、ほんの一瞬だったもん。姿見れた、と思ったら終わり、とか」
「んな短いのかよ、それなら早いとこ願いを言え」
契約さえ結んでしまえば、「扉」の稼働時間なんぞ関係はない。契約が終わればもう一度開かせればいいだけで、だが、契約を結ばないままこの「扉」が閉じれば、オレはただ強制送還されてしまう。
それじゃあ、来た意味がない。せっかくの菓子を目の前にして。
女は、また笑った。
「地が出たね。あなた、実はまだ若いでしょ? もしかして、あたしと同じくらいだったりして? あたし、今日で十三なんだけどねー。あ、さすがにそんなには」
「んなこたどうでもいい、時間ねえんだろとっとと言え」
「えーと」
女は、目を逸らした。窓がない上にポスターも何もないつるんとした壁を見遣り、オレに視線を戻し、困ったように笑う。
「ごめんね、別にないんだ」
「はぁ?!」
「て言うか、話し相手ほしいなっていうのが願い事で、だからほら、叶っちゃったし?」
「話し相手だぁ?」
「ごめんねー。だってほら、一人だと日本語も忘れちゃいそうで。まあだからって困ることもないんだけどね?」
そこで、ふと。気付いた。
窓のない壁。天井に、枠だけ――あれは多分扉だが、あそこまでこの女が己の身長の倍以上も跳べるのでなければ、届きはしないだろう。
もう一度、部屋の中を見回す。壁際に、よれよれの段ボールを立てかけて本棚のようにしたもの。見える背表紙はどれも読めるはずもないが、擦り切れたり汚れたりして、随分と年季の入ったものだとは判る。あとは、これも段ボールに、服やらタオルやらがほんの少し詰まっていて、布団も隅にまとめてある。
で。
こいつは、どこから出入りするんだ?
それともこいつらは、扉なんてものが必要ない技術を開発したのか。あの高い天井にある扉から、実は階段だか縄だかが下りてきて出入りするのか。その操作はどうやってするんだ。
もう一度、子どもの女を見る。
別に、がりがりに痩せている様子もなければ、服も、着古してはいるが垢まみれというわけでもない。
「…お前、ここに住んでるんだよな?」
「そうだよ? どうして?」
会話が出来るからか嬉しげに、女はオレの質問に飛びつく。
「お前に『扉』を――魔方陣を教えた師匠ってのは、どこにいるんだ?」
「んー。強いて言えば、そこ?」
女が示したのは、段ボールに収まった本だった。
「えーっとね、お母さんが、そういうのに詳しかったとかで。あの本全部、お母さんのなんだ。凄いんだよー、どこのかわかんない言葉で書かれてたりしてさー。図入りだからわかったりわかんなかったり」
「その、母親は?」
「あたしと入れ変わりで死んじゃったんだって」
「じゃあお前、今、誰と暮らしてんだ」
「え? 一人だよ?」
多分、こいつが喋ってるのは日本語のはずだ。さっき、自分で言ってたんだから、間違いないだろう。ということは、ここは日本じゃないのか。日本ってのは、比較的裕福な国だが、このくらいの子どもがたった一人で暮らしていけるほどじゃなかったんじゃないのか。それとも、俺が知らないだけで、物凄い進化を遂げていて、家族だとかなんだとかいう、群れでの暮らしは必要なくなったのか。
女は、途切れた会話に言葉が足りないと思ったのか、続けた。
「あのね、昔はお父さんがいたんだけどね、お父さんが再婚して新しいお母さんもいたんだけどね、あたしがいたずらしたせいでお母さんの本とか魔法陣のこととかばれちゃって、一人になっちゃったんだ。あ、でも、今もちゃんとご飯くれるし体洗うお湯だってくれるし、一緒に暮らしてるようなものなのかな? たまーに忘れられちゃったりするんだけどね、今のとこそんな感じ?」
「…何だそりゃ」
「んー何か怖がらせちゃった感じ。見つかったときが凄かったから。えーとね、山羊の顔してむっちりマッチョな体した悪魔が魔法陣の上にいたとこばっちり見られちゃって」 何だそれは。
こいつは、つまり、殺すのも躊躇われるほどに恐れられているというのだろうか。
こんな、貧弱なガキが? 片手でさえ、首をへし折れそうな細さのこいつが?
馬鹿らしいが――それなら、簡単だ。
「手を出せ」
「え?」
「とりあえずは、それで簡単に契約しろ。そろそろ三分だろ」
「いや、だからあたし、願い事は」
「俺と契約しろ。そんな親なんて打ち殺して、行きたいところに連れて行ってやる」
女は目を見開いて、笑おうとして、失敗した。失敗したのに、目に涙を溜めながら、それでも――笑った。
「ありがとう。ごめんね、よび出したのに、契約しなくって。ごめんね。――ありがとう」
泣いた笑顔が、薄れて消える。そんなことを言うくらいなら手を伸ばせと、叫ぶ間もなかった。そんな、哀しそうに笑うなと、言う間も、なかった。
――「扉」は、閉じられた。
一人きり、寒々しいほどに物の少ない、高い天井の地下室に閉じ込められた少女は、ぺたんと冷たい地面に座り込んだ。
さっきまで見上げていた人――人、ではなくて悪魔だけれども――は、もういない。
ボタンで床に彫った魔方陣を呆けたように眺めやり、こぼれ落ちてしまった涙を拭う。
「うん、いい人だった。って、あれ、人じゃないけど、良い悪魔、って何か変だよね? んー、いいや、良い人、で。あたしのことなんて気にしてくれなくっていいのにな。やだなあもう、あんなこと言われたら、揺らいじゃうじゃないねー。お父さんも新しいお母さんも、良い人なのに。あたしが悪い子だっただけなのに、悪い子なのにこうやって生かしてくれてるのに、これ以上望んじゃ駄目なのに」
独り言ではなく、まるで誰かに話しかけるように言葉を紡ぎ、やがて、一度深く目を閉じた少女は、勢いよく立ち上がった。
「よーし、もっとちゃんと勉強しよっと。喚び出せる相手を選べるようにならなくっちゃね! もう――あんな良い人、喚んじゃ駄目だもんね。たった三分だからって、契約もしないのに巻き込んじゃったら迷惑だもんね」
少女は、昔父がくれた懐中時計をポケットに移し、笑った。
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