ひと時の夜

 夜だった。

 月は昇っているが、地上の光に遮られ、見えないか、せいぜいが空に開いた穴。しかしそれさえも、自分のことだけに夢中になっている人々には、目に留まらない。

 ありふれた雑居ビルの二階に、足を運んだ。知らなければそんなところで店が開かれているなどと、気付かないかもしれない。

 ひっそりと掲げられた看板には、「Cocktail Bar GLOBE」とある。

 入ると、暗がりの中に光が留まっている。大きな蛍のように、そこかしこを柔らかな光が包む。入ってすぐ目に入る地味な料金表は、見慣れているからそのまま通り過ぎるが、チャージ料と500円という文字が目に入った。

 待ち合わせを告げると、奥まった席に案内された。

 相手は、すでに席についている。長い髪をゆるく束ねて垂らしたミツカは、ホワイト・レディーのグラスを傾け、艶やかな唇を開いた。

「遅刻です」

「丁度だろう?」

「私の時計は、5分進めてあるんです」

 そう言って、ミツカは腕時計を見せた。隣に並べた正確な零時を示す時計とは、なるほど、針が30度違う。

 有無を言わさずに自分のルールを通そうとするところは変わらず、肩をすくめて椅子に座った。

「何か食べますか?」

「いや」

 ポテトのつまみを横目に、首を振る。

「アメリカーノ」

「ラスト・キッス」

「まだ仕事中だって、わかっているんだろうね?」

 ウェイターが下がるのを待って言うと、ミツカは、ふてくされたような視線を寄越した。残っていたホワイト・レディーを一息に干す。

 わっと、離れた席で歓声が上がった。大学生が、場違いに騒いでいるようだ。

 大学生から中高年まで、客層が広くて入りやすいのはいいが、そのために時々、こういったこともある。私は目くじらを立てるつもりもないが、さて、ミツカはどうか。

 だが彼女は、うつろに彼らの方を見やっただけだった。

「時間の流れとは残酷なものですね」

「そうかな、僕にはひどく優しく感じられるけれど。――何があったのかな?」

「何も。仕事は、滞りなく完了しました。あとは、きっちり姿をくらますだけです」

「問題がないようには感じられないけれど?」

 酒が届けられ、ミツカは即座に、「オールド・クロック」と告げた。そうして、ラスト・キッスに口をつける。ウェイターが何か言いたげに私を見たが、肩をすくめて見せた。彼女は、私よりもずっと強い。

「優しいなんて言えるあなたには、どれだけ時間を遡ってもわかりません」

 どうやら、今日は絡むつもりらしい。普段は手のかからない有能なこの部下は、時に子供っぽく、時に我侭になる。

 しかしそれは彼女特有というわけではなく、どうやら、私の方が稀有な体質らしい。いや、元妻に言わせると、鈍いのか。

「あの人がいないと生きていけない、なんて言っていた人が、次の恋をするんです。どこまでも追いかけて行って殺してやる、って言っていた人が、穏やかに余生を過ごしたいと望むんです。エントロピーの法則ではありませんが、悲しみも憎しみも、時間の流れには勝てないんです。時の女神はきっと、さぞ冷たく微笑んでいることでしょう」

 今回、ミツカの仕事は、娘を殺された父親のフォロー・アップだったか。

 私たちの仕事は、主には死別で、犯罪へと走りかねない人々を、気付かれずにその要素から引き離すことにある。大掛かりな変化は望めないが、いくらかの効果は認められ、些少なことであれば「未来は変えられる」ことが実証されたための仕事だ。

 だから私たちは、カウンターで一人グラスを傾ける初老の老人はもとより、もしかすると未成年かもしれない大学生たちの誰とも、本当であれば、生きる時間が重なることはないはずだった。

 もちろん、このバーに訪れることもないはずだ。

 ミツカは、味わうはずもなかったはずのカクテルを飲み干すと、運ばれて来た次のグラスを手に取った。

「厭になったなら、いつでも次の仕事の紹介状を書くよ?」

 じろりと、ミツカは私を睨み付けた。

「なんてお優しい上司でしょう」

「その通り。今日はもう休みなさい。君、チェックを頼むよ」

 清算を済ませると、ミツカが、私が来る前に数杯は空けているだろうことが判った。ウェイターが無言で伺うのも道理だ。

 しかし顔色に出ないミツカは、気力だけで立ち上がると、私の手も借りずに歩き出した。

「とりあえず、これが終わったらしっかりと休むことだね。ただでさえ、タイム・ワープは負担がかかるんだ」

「それほど柔ではありません」

「いいかい、これは義務付けられていることでもあるんだよ。それを忘れている時点で、影響が出ていると言えるよ」

 外に出ると、光の洪水が待ち受けていた。雲が出てきたのか、空には月さえ見えず、地上の光を反射した白っぽい色があった。

 送って行こうと、電車乗り場に向かった。そのまま、家の前まで付き添った。

「人は、時の流れの寛大さに甘えているんだよ」

 小さなアパートの扉の前で鍵を探すミツカを見つめながら、つい呟いていた。まずいと思ったときには、ミツカはこちらを見ていた。無言で、先を促される。

 まさかあの一杯で酔ったとも思えないから、どうやら、私にもタイム・ワープの影響が出ているらしい。法定内の休みを、ごまかして取らなかったせいだろうか。

「残酷なのは、時の流れなんてものではないよ。人さ。タイム・ワープだって、死者を取り戻したいと願う違反者がどれほど出ているか。これは、ものすごく贅沢な我侭なのさ」

「…ソウマ先輩は、時々私よりもずっと厳しいことを言われますね」

 ありがとうございましたお休みなさい、と、扉は閉められる。

 月さえ消えた夜空を見上げ、私は、未熟者だと一人、ぼやいて背を向けた。仕事はまだ、終わってはいないのだ。



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