雨夜譚

 それに気付いたのは、嗅覚からだった。土の匂いがした。

 耳を澄ませば、密やかな雨音。田んぼに、まだ蛙はいるだろうか。いれば、喜んでいるに違いない。もっとも、音から察するにあまり降ってはいないようだけれど。

 家人は皆出払っていて、たまたま私は、一人で杯を傾けていた。

 しとしとと降る雨、というのは随分と久し振りのような気がする。この頃では、どこの熱帯が移って来たかと思うような、かと言ってスコールなどと呼べば誰かに叱責されてしまいそうではあるのだが、一時に集中して降ってほんの三十分ほどもすれば嘘のように止んでしまう。そんな、情緒など感じようもない雨の降り方が、最近では主流になってしまっているように思えた。

 なんだ懐かしいなと、どこか的外れなことを思いながら私は、暑さのために開け放っていた窓の外の闇に思いを馳せた。

 土の面がしっとりと湿り、草木は昼に焼かれた身体を濡らして一息つく。蛙は喜ぶだろうが、蝉や蜻蛉の類は迷惑がっているだろうか。野良猫あたりは、きっと、上手く避難しているのだろう。

 さてところで、雨の似合う生きものは何だろう。

 軽い酔いと閑に任せて、ふとそんなことを考える。

 当然、蛙は外せない。あいつらときたら、陸の生きものの癖にしょっちゅう水に入りたがるのだから、陸にいながらにしての水遊びに喜ばないはずがない。その証拠に、雨が降ればあいつらの泣き声は一層賑やかになる。

 他には――毛のある生きものは押しなべて、濡れるとみすぼらしくなってしまって似つかわしくない。しかし魚類ではちょっと水面が揺れるな、という程度だろうし、かといって爬虫類もどうだろう。

 考えてみればそもそも、私はあまり雨の降る時分には外に出ないのだった。それでは、雨にはしゃぐ生きものもそう見ている筈がない。いや、それと似合うかどうかは別問題か。同じかもしれない。

「ううむ。行き詰ってしまった」

 だからどうということはなく、不意に呟いてみた。ぼつりとこぼれた言葉は、そのまま雨のように溶け落ちるかと思いきや。

「おやおや、一体何を悩んでおいでで?」

「――あなたは?」

 いつの間にか、古風な美人が向かいで酒を傾けていた。相手は、心持持ち上がった口の端を更に持ち上げ、艶然と笑う。

「野暮なことはお聞きでないよ。それよりも、悩み事なら話して御覧なさい」

 何故か不気味とも物騒とも思わずうっとりと見とれた私は、悩みと言うほどではない悩みを、口にしていいものかと大いに悩んだ。意味のない暇つぶしで、呆れられやしないかと懼れたのだ。

 しかし、対面の蠱惑的な瞳を見つめていると、まさか軽蔑されることもあるまいと、どうしてだか気が大きくなった。そう思って全てを――といっても雨の似合う生きものは何かというただそれだけではあるのだけれど、私見も併せて一切合財を口にすると、くすくすと笑い、そうですねえなどと、考える素振りを見せた。着物のあわせからのぞく胸元が、妙になまめかしい。

 思わず目を逸らして氷の溶けた酒盃を呷った。

「人、なんてどうです?」

「人」

「ええ。傘を差して佇んでいるのなんてどうです。何も持たず濡れそぼっていても、風情がありゃしませんか」

 成る程確かに。対酌の人物など、雨に打たれ濡れていれば、一層、妖艶なほどの雰囲気を醸すだろう。そしてやはりそこには、しとしとと降り注ぐ雨が相応しいに違いない。

 豪雨に風情を感じるのは、陽気続きの中に篠突く五月雨くらいだろうか。しかしあれも、風情と言えば言えないこともないが、雄雄しいとでも言った方が似つかわしい。

「ああ、でも」

 向かいの人は、ふうわりと呟いた。 

「雨合羽なんて羽織って遊ぶ子どもこそ、似つかわしいやも知れませんねえ」

 遠くの何かをうっとりと見詰めるように、その瞳は彼方に焦点を結んでいる。その姿は、暗闇で遠く仄めく狐火か何かのようだった。

 そうして、かの美人は。ゆらり、と、姿を消した。

 後に残るのは私のものではない酒盃のみで、それもよく見てみれば、注がれているのは酒ではないようだった。おそるおそる舐めてみればそれは、根雪を溶かした味がした。


 翌日、家人にその話をすると、一人は哀れむような私の頭具合を慮るような視線を寄越し、一人は幽霊だと楽しげに決め付け、一人は狐か狸じゃないかと言い、獣の毛が落ちていたのはそのせいかと納得した。示した場所は丁度、昨夜の佳人の座っていたあたりだった。

 私はといえば、家のものでない杯を窓辺に置き、成る程雨が似合うのは人か、などとぼんやりと酒を呷っている。雨夜にはまた、あの美人は尋ねて来るだろうか。



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