夜明けの向こう

 そろりと、手を伸ばす。目指すは、黒革の本だ。銀でいかめしい彫り文様の施された、それ。

 装丁だけの値もそれなりだろうが、中身は、それどころではない。今となっては記憶の奥底、歴史の彼方に葬られたはずの呪文や儀式の数々。代償が大きすぎるがゆえに封じられたそれらを記す、一冊の本。禁呪ばかりを載せた、見る者が見れば目の色を変える書だ。

 慎重に伸ばされた手は、まだ発展途上のものだが、小さいとも言い切れなかった。

 その指先が、かすかに届く。

「ここの本を盗もうだなんて、ずいぶんと思い切った泥棒ですね」

 穏やかな声なのだが冷たく、あとわずかのところまで伸ばされた手は、そこで止まってしまった。

「とりあえず、名前と住処を訊きましょうか。ここではなんですから、あちらへ」

 有無を言わせぬ口調は、敗北を知らしめるには、十分すぎた。

「まったく、一度死んだら生き返るはずがない、という大前提をあっさりと無視してくれる輩が多すぎて、迷惑ですね」

「・・・だけどあんたは、死人を蘇らせるじゃないか」

 アウグスト・メンデルは、唇を歪めて笑った。

「やれやれ。私も、随分と有名になったものです」

 即座に役所へ突き出されず、実のところ、少年は、いぶかしみつつも怯えていた。アウグスト・メンデルは貴人で賢者との評があり、禁呪の使い手でもある。そうして、狂人とも名高い。どんな人体実験をされるのか、考えたくもない。

 しかし話は、予想外の方向へと転がって行くのだった。

「その言いようでは、誰か生き返らせたい人がいるようですね。まあ、ここに来るのは、九割方そんなところですが。誰です?」

「・・・兄ちゃん」

「お兄さんを。それは兄思いなことで。しかし残念ながら、子供の自己満足で扱えるような物は、ここには何一つありませんよ。大人しく帰ることですね」

 突き放した言いように、少年の頭に血が上った。

 兄にかえってきてほしい。それしか、少年に出来ることはないのだ。自分のために兄は死に、そのせいで、母は廃人のようになった。

 だから、必死に調べて、学んで、最後はここしかないのだ。

「何がッ、あんたに、何がわかるんだよッ・・・!」

 激昂しすぎて、ろくに言葉が出ない。もっと酷い言葉をぶつけてやりたいのに、出てこない。睨み付けられているかさえも、視界が怒りに白く染まり、判然としない。

「ふむ」

 落ち着いた声は、わずかに意外そうに、息のような音を伝えた。

「わかりました。ここの閲覧許可を与えましょう。幾つかの約束を守るなら、好きなだけ調べて構いません。異存はありますか?」

「い――や。いいや、ない!」

「それなら、改めて名前を伺いましょうか。ちなみに、私はアウグスト・メンデル。ここの管理人です」

 ごくりと、少年は、知らずにつばを飲み込んでいた。集められるだけの書物が集められているという、この場所の管理者が、少年に許可を与えるというのだ。

 少年は、平静ではいられなかったが、どうにか理性を保つことには成功した。

「俺は――ハイン」

「ありふれた名ですね。ではハイン、今から言うことを忘れずにいるように。ひとつでも破れば、即刻出て行ってもらいますよ」

 少年が、目的への鍵を手に入れた、と感じた瞬間だった。


 それから少年の日々は、書庫へ篭り、本を読み漁ることになった。

 書庫に飲食物、水気のあるものを持ち込むことは厳禁で、夜間に灯火を灯すのはアウグストが同席している場合のみなので、水を持ち込むこともせずに頁をめくり、日が昇るまでと日が暮れてからは締め出される。食事は、日の沈んでいる間の朝と夜の二回。

 アウグストが宿を提供してくれたのは、意外ながらも嬉しい誤算だった。食事も、少年が二人分作るならということで、食べさせてもらっている。路銀が尽きかけたところだった身としては、訝しみながらも、突っぱねるわけにもいかない。

 ただ本を読むだけだとも言えるが、極限まで頭を働かせ、根を詰めて、膨大な文字列を追うのだ。食べ、休まなければやっていけない。

 そうして、秋も終わろうとする頃には、少年はすっかりこの生活に慣れ、蓄えられた書物の、実に、九割方を読破していた。家から持参した羊皮紙には、覚え書きやメモが、びっしりと書きつけられている。

 残りは、ほとんどが、アウグストが同席していなければ手を出すなと言われたものだった。そこには、黒革の禁書も含まれていた。  


「なあ、あんた」

「年長者は敬うように。何か疑問でも?」

 アウグストは羊皮紙の束をめくり、少年からは少し離れたところに椅子を持ち込み、見掛けだけは優雅に作業を進めていた。少年はその中身を知らない。当たり前と言えば当たり前のことだ。

 それにしても、アウグストには謎が多い。まず年齢不詳で、二十歳そこそこにも、三十や四十にも見える。下手をすると、五十にも。しかしおそらくは、三十程度だろうと少年は見ていた。

 生業も判り難い。少年は当初、奇人で賢者、世界最高峰の書庫の管理人、禁呪の使い手、といった情報を耳にしていた。しかし、ただそれだけで金が入ってくるわけもなく、その上、蔵書は保管することが目的であって、閲覧者はごくごく限られている。もっとも、法外な料金を取って閲覧を許しているのかもしれない。

 禁呪によって、何らかの仕事をこなしているようだと、少年にも知れた。

「・・・ただ年上ってだけで敬えねーよ」

「時として、知識は経験に適わないものですよ。まあ、年月を経れば必ずしも成長する、というものでもありませんがね」

「あんたは、ここの本を全部読んだのか?」

 忠言めいた言葉を無視した少年に、アウグストは、ただ軽く肩をすくめ、書類をひざに置いた。

「読みましたよ」

「だから、あんたは死人を蘇らせれるのか?」

「何故、今頃になってそんなことを問うのです?」

「・・・」

「禁書に目を通して、蘇生法のないことに失望しましたか? 折角、基礎のお浚いからはじめて、関係のなさそうな書も読みきって、ようやく秘密保持の必要な書を読むまでに到達したのだから、そのまま進めればよいでしょう」

 見透かされているかのようだった。

 黒革の本を開き、読み進め、得られたのは、死人が蘇ったかのように見せられる術だけだった。人の体に、動力の元になるようなものを入れて動かすという、術。それなら、載っていた。

 道は閉ざされたのかと、そう、思ってしまった。だから、他人の出した答えを、聞きたくなった。

「・・・あんたは。手に入れられたのか・・・?」

「君が答えを出したら、私も答えましょう。先入観を容れたくはありませんからね。好きに判断なさい」

 そう言って、アウグストは立ち上がった。片手には、紙束を掴んでいる。

「閉めますよ」

 少年は、無言で、のろのろと本を渡した。アウグストは、受け取ると丁寧に、書棚へと戻した。

 少年を先に立たせて部屋を出る。アウグストが鍵を閉めるのを、いつもは見たりしないのだが、このときは、ぼうっと、見つめていた。

 鍵をかけながら、アウグストは、振り返ることもなく言った。

「ここを出るつもりなら、忘れ物はないようにしてくださいね」

「馬鹿にするな・・・ッ」

 それが逃げ出すことを示唆していると気付くまで、疲れた頭には、少しの間が必要だった。

 睨み付けると、涼やかな瞳が見返す。相変わらず、超然としている。揺れてしまう、小さな自分とは違って。

「馬鹿にはしていませんよ。期待を抱いて撤退するのも、生きるためには必要な場合がありますからね」

「俺は、逃げない。使えない期待なんて持ってどうするんだ。本当のことを確かめて、何もないなら、とことんまで絶望して、地獄の底からでも、偽物じゃない光を見つけ出してやる」  

「いい心意気です」

 にこりと微笑むと、アウグストは、軽く少年の肩を叩いた。

「ここは冷えますよ。それに、おなかも空いてるんですよね」

 捉えどころのない男だと、思う。


 その、夜のことだった。

 地鳴りに似た大きな音で目を覚ました少年は、驚いて、眠気の残滓を伴いつつも、周囲を見回した。寝場所に間借りしているのは調理場横の小部屋で、元は物置だったのだろうが、何故か、寝室のように整えられていたところだ。

 窓のない部屋だから、ここにいても何が判るわけでもない。ようやく完全に目の覚めた少年は、そうと気付くと、上着を手に取って扉を開けた。

「そこにいなさい」

 開けた途端の声に、びくりと身をすくめる。しかし、アウグストの姿はなかった。暗闇に目を凝らすと、向かいの書庫に、灯りがともっているのが目に入った。

 何だか判らないが、とにかく行ってみようと足を踏み出すと、そこを掴むものがあった。

「えっ?!」

「いなさいと、言っているでしょう」

「あ・・・伝言人形」

 慌てて見た足元には、小さな泥人形があった。それが、少年の足を押さえている。

 言葉を伝え、相手がその通りに行動するかを見張る人形だ。声から推測するまでもなく、アウグストが置いたものだろう。伝言と監視だけならまだしも、動くものを作れる術者は、そうはいない。

 少年は、短く考え込む。

「つまりは、見られたくないことをやってるってことだよな?」

「そこにいなさい」

「やだねっ」

 人形を蹴り飛ばし、少年は、書庫へと駆けて行った。伝言人形が壊されたことは、アウグストへと伝わってしまっているだろうから、こうなったら速さ勝負だ。

 すっかり慣れた最短距離を走り、扉を押すと、鍵もかかっていなかった。

 駆け込み、しかし少年が見たものは、全くの予想外だった。

「何だ・・・これ・・・?」

 呆然と、自分が呟いたことにも気付かず、少年は、目を見開いた。棚の本が、手荒に引き出される。袋に詰め込まれ、時折、「お宝なんだから丁寧に扱え」と声が飛ぶ。

 盗賊と思い至ったときには、見咎められていた。

「何だ、ちび? なにしてやがる」

 それはこちらの台詞だと言いたいところだが、声も出なかった。

 男たちは、明らかに暴力に慣れている。本も、自分たちが読むのではなく、売り捌くために手に入れるのだ。この男たちにとって、本は、物好きから金を引き出す道具でしかないだろう。

 そんなものであっていいはずが、ない。

 全て、貴重な知識の詰まった、大切なものだ。

「な・・・何、してるんだよ、それをどうするつもりだッ!」

「ああ?」

「それは、お前たちなんかが触れていい物じゃない!」

「あぁん?」

 数人が不機嫌そうに、残りが面白いものを見つけたとでも言うように、少年を見る。獲物をいたぶる、獣の目だ。

 思わず、逃げ出したくなる。背を向けて、逃げ出して、それでも構わないのではないかと、そんな声が囁く。アウグストが困るだけで、少年自身は、大体は目を通している。全てを読みきったところで、人を蘇らせる方法など載っていないかもしれない。それでなくても、少年が男たちに敵わないのは明白だ。それでは、ただの犬死ではないか。

 それでも、体は動かなかった。

 ここで逃げ出すのは、厭だった。

「ここから出て行け! ここは、アウグスト・メンデルの書庫だ!」

 男たちの、馬鹿にしきった笑い声が聞こえた。それでも、少年は逃げようとはせず、それどころか、近くにいた男が本を袋に入れるのを、体当たりして奪い取った。

「ガキが!」

 殴られる、と、目をつぶった。ところが衝撃はなく、拍手の音が聞こえた。

 恐る恐る目を開くと、近くに立つのはアウグストで、書庫ではなく、町外れの城の遺跡だった。少年の位置は変わっているが、男たちは、書庫にいたのと同じような位置に立っている。

「よくできました」

「なっ・・・何だ?!」

「おい、ここは?!」

「本がねぇぞ!」

「はじめからそんなものありませんよ。あそこに押し入ろうとすると、ここに転送されるようにしてありますから。幻覚です」

 にこりと微笑むアウグストは、いつもと同じように、防寒服までが同じ黒一色だった。男たちが殺気立って睨み付ける中、アウグストは、涼しげに微笑している。

「いつもは、そこまでしませんけどね。お役目ご苦労様、大人しくしていれば、怪我をせずに済みますよ」

「なんだと、この野郎ッ!」

「仕方ありませんね」

 微笑んだまま、すうと目を開く。朗々と唱えた文言が、炎の幻術を出現させるものだと気付いた少年は、途中で耳をふさいだ。そうしてそのまま見ていると、男たちは、どれも怯えたように逃げ惑い、絶叫し、次々と倒れていった。

 全て倒れ伏し、少年が恐る恐るアウグストを見上げると、軽く、頭を撫でられた。どこか嬉しそうな、笑みが浮かんでいる。

 少年は、両手を離した。

「恐い思いをさせてすみませんね。怪我はありませんか?」 

「・・・何・・・だったんだ?」

「盗人ですね。あそこの建物は、鍵なしで二人以上が一度に入ると、ここに転送するようにしてあるんですよ。それよりも、私に弟子入りしませんか?」

「は?」

 予想外の言葉に、呆けて見上げる。

「正しくは、後継者になってほしいんです。膨大な書物も、管理を怠ればごみになってしまいますからね。アウグスト・メンデルの名を継いでもらえませんか」

 言葉の意味を飲み込むまで、少しかかった。その間、アウグストは、穏やかに微笑んで立っていた。

 馬鹿馬鹿しいことに、アウグスト・メンデルという名が代々受け継がれるものであるということに、少年はひどく驚いていた。てっきり、本名と思い込んでいた。

「なんで・・・俺」

「無謀さと根性と、考え方が気に入りました。君なら、本も大切に扱ってくれるでしょうし。ご両親は、君の意思に任せるということですよ」

「・・・?!」

「勝手とは思いましたが、誘拐犯にされても困りますしね。そもそも、身元の確認もせずに長く手元に置くのは無用心ですから。調べさせてもらいました。ご両親は、君がここにいることを知っていますよ、ダニエル君」

 全て知られていたということに、腹立ちと、恥ずかしさを覚えた。偽名を使ったことも、意味はなかったのだ。

 そうすると、今日のこれも、偶然ではないのだろうか。あの音も、わざと、立てたものだったのだろうか。

 つまりは、手のひらの上で踊らされていたということか。

「偽名を使う用心深さも、気に入った理由の一つですよ。名前を知られると操られる、という俗信がありますね。まあ、完全に嘘とも言えませんが、人にはあまり効きませんよ」

「・・・楽しいかよ」

「え?」

「楽しいか。そうやって見下して、弄んで! それで満足かよ?!」

「弄んだつもりは、なかったんですけどね」

 ふっと、淋しげな表情になる。ダニエルは、怒りが急速に冷えるのを感じた。

 アウグストは、背を向けた。

「戻りましょう。ここにいては、風邪を引きますよ。それでなくても、一日中本の読み通しで疲れているはずですからね」

 そう言って、一人、足早に去ってしまう。ダニエルは、転がる男たちを一瞬だけ見やって、アウグストを追いかけるべきなのかと、思いつつも立ち尽くしていた。


 それから数日は、変わりなく過ぎていった。ダニエルが食事を作り、二人で食べ、黙々と本や羊皮紙の束を読む。

 一度、気が向いて町に出ると、アウグストが意外にも町の人々に慕われていることと、遺跡には毎朝役所の者が巡回し、盗賊が転がっていれば捕まえるということを繰り返していると、知った。

 未読分も少なくなり、それに伴い、少なくとも現在、書庫の本に書き記されている中には、人を蘇らせる術はないと見当がついた。深い失望があったが、知識を活かして自分で見つけられないかと、そんな思いも芽生えてきた。

 ただそれは、罪悪感からではなく、欲なのだと、知りたいと焦がれる欲なのだと、薄々気付いていた。

 最後の一頁を読んでも、やはり、記されてはいなかった。

「答は出ましたか?」

 穏やかに尋ねられたのは、青空の下でだった。

 全て読み終え、書庫を後にしたダニエルを追うようにして、アウグストも外に出ていた。兄が死んだのも、よく晴れた日だったと、そんなことを思う。

「ここの本には、人の蘇生法なんて書かれてない」

「ここにない本は、写本の一切ないものと考えて間違いないと思いますよ。もっとも、原本のみのものも、ここにはありますが」

 つまりは、世間に出回っている本は、ほぼ揃っているということだ。――活版印刷が普及するのは、いま少し後のことになる。

「それなら、蘇生法は書かれてないんだろう。俺は、自力で探し出す」

「それが結論ですか」

「文句あるか?」

「いえ。立派です。それなら、最後の夕食くらい、私が作りましょうか。それとも、今からすぐに出て行きますか?」

 ダニエルが出て行くことが前提の言葉に、気後れした。今更、手遅れだろうか。そう思うが、確かめることもなく諦めるのも、厭だ。

 勇気を振り絞って、顔を上げた。

「前の、後継者っての、もう無理かな」

「え?」

「ここに残って、蘇生法を探すのって、駄目、かな」

「・・・・・・・・・歓迎します」

 長い間を置いて、にっこりと、アウグストは微笑んだ。

 胸の内の、恐れが消える。

「ただし、ちゃんと私のことを敬ってくださいよ」

 いたずらっぽく言う師に、さてどう答えたものかと、束の間考え込んだ。

 青空の下で見上げた書庫とアウグストと、今日でお別れでないことが、思った以上に嬉しかった。



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