幻灯語 - げんとうかたり -

 硝子灯を買ってしまった。

 フリーマーケット、昔風に言うなら蚤の市の場を歩くのは、もはや趣味のようなものだけれど、眺めるのだ楽しいのであって、何かを買ったことはなかった。

 まだ十分に着られる服や、使える家財道具、何故か着物の山、小さなおもちゃの数々。中には、どう見ても壊れていて、金をもらったところで要らないと思うものもあるのだが、時折売れていたりもするから面白い。

 ねえおじさん、見てないで買ってってよ。

 並ぶ品々を見ていた私に声をかけた少女は、雰囲気を出すためか、浴衣を着ていた。もっとも、明治や大正、昭和初期を思わせる品々に、今風の浴衣というのも、いささかちぐはぐな感は否めない。

 おじさん、と呼ばれたことに少しばかり傷付きながらも、少女の倍ほどは生きていると思うと、それも仕方のないことかと、諦めの心境になる。

 それにしても、こんな風に声をかけられたのは初めてだ。

 何故か、どこか投げやりな雰囲気がある。厭なことは早くに済ませよう、しかし嫌々だからやる気なんてどこにもない、とでも言うような。

 これ、本当に売って大丈夫なのかい?

 大丈夫って? 全部、うちにあったやつよ?

 文句ある、と言いたげにむっとする少女。私は慌てて、手を振った。

 これだけの量となると、誰かが集めたんじゃないのかい? 手放してしまっていいのかなと、思ったんだよ。

 いいのよ。あったって邪魔なだけだもん。

 骨董屋にでも持って行けばいいんじゃないのかな。

 買うの、買わないの?!

 ぎろりと睨みつけられて、困って逃げ出そうかと思ったときに、そのランプが目に留まったのだった。

 凍りついたような色をしたガラス――破璃の笠に、夜明けの色の炎の調整部分、宵闇の油壺。思わず見つめると、少女がそれに気付き、居並んだ他の硝子灯や時代がかった小物を倒さないようにそっと、手に取った。

 近くで見ると、埃や経年での汚れがあるが、やはり綺麗だった。

 これを買うのね?

 え。いや、あの。

 お買い上げありがとうございます。包むものちょうだい。

 呼びかけは少し離れたところにいる母親と思しき女性に対するもので、彼女には私たちのやり取りは聞こえていなかったものか、色白の女性はにこりと笑みを浮かべ、少女から手渡された硝子灯を、新聞紙で包み始めてしまう。

 結句、安いのか高いのかも判らない値を払い、購入することになってしまった。

 さしあたって職はなく、父の葬儀以来ずるずると実家に居座ってしまっている身としては手痛い出費だったのだけれど、持ち帰ると、いつまでも若々しい母は、少女のように目を輝かせた。

 まあ、きれい。火を入れたら、きっと映えるでしょうね。

 何だどうしたと、口にもしない。エンドウの筋取りを放棄して、当然のように硝子を磨き始めてしまう。

 私は、母に代わってエンドウを手に取った。

 骨董屋に持って行ったら、いくらになると思いますか?

 売っちゃうの?

 いや。

 ただ、払った値が相応のものか判らないだろうかと思っただけなのだが、母が哀しげに見せた表情に慌てて、ぶっきらぼうな返事になってしまった。

 あの父は、よくぞこんなに可愛らしい人を捕まえたものだと、自分の母ながら思う。さぞ競争相手は多かっただろうに、面白味のないあの人が、どうやったものか。

 手放さないと聞いて安堵したのか、母は、楽しそうに汚れをぬぐいながら、小首を傾げた。

 あまり詳しくは知らないけど、と前置きして告げられた値は払ったものよりも安く、少しだけがっかりした。しかし考えてみれば当たり前のことで、あの少女たちも、思うような値がつかず、自分で値を決めることにしたのだろう。

 だけど、美術品を扱うところだと、もう少し高いかもしれないわね。

 どうしてです?

 だって、とってもキレイ。

 そう言って、母は若々しく笑った。何の根拠もない言葉だが、つい私も、心のうちで同意してしまう。

 下に行くにつれて徐々に色の濃くなる硝子灯は、確かに綺麗なのだ。

 油はあるから、読書灯にでもお使いなさい。でもそのうち、私にも貸してね。

 ごくごく当たり前の調子で言った母は、磨き終えた硝子灯を机に載せ、私の抱えていた筋の取れたサヤエンドウのボールを持っていった。

 私はほとんど母にあげるつもりでいたのだけれど、一度くらい使ってみようという気分になった。

 その夜。

 火を入れ、電灯を消すと、薄い赤にほのかに青みがかった灯りがともる。あまり大きくはない寝室だけれど、光が広がり、しかし満たしきれずに闇に囲まれる。

 中世の僧院をイメージして、知りもしないのにと、苦笑がこぼれた。

 ふうぅう

 ゆっくりと息を吐くような音がして、私は、思わず周りを見渡した。当たり前だが、狭い部屋には私一人だ。母の部屋は階下で、隣家はあるが、呼気の音が聞こえるほどに近くに立っているわけではない。

 そもそも、音は、耳元とまでは言わなくとも随分と近くで聞こえた。

 誰か、いるんですか?

 馬鹿げていると思いながらもそう口にしてしまったのは、その音が、更に聞こえたからだった。だが応えはなく、ただ、やはり呼吸をするように、途切れながらも音は聞こえ続けた。

 不思議と、恐くも気持ち悪くも感じず、私は、しばらくぼんやりと、幻夢的な燈火を眺めていた。

 やがて、心地よい眠気に誘われ、灯りを落として布団にもぐりこんだ。

 闇の中でふうぅう、という音が聞こえることはなかったけれど、私の頭の中では何度か、こだまのように繰り返されていた。

 翌日の夜、私は硝子灯に明かりを入れた。闇を引き立てる灯りがともり、ゆらめく。

 物書きの端くれだった私が、思いついて紙とペンを引っ張りだして眺めやっていると、今日もまた、音が聞こえた。

 ふうぅう

 どなたです?

 父が大学の入学祝に寄越したペンをいじりながら、思いついて声をかけた。人の呼気との確証はなく、もとより返事は期待していなかったのだが、意外なことに応えがあった。

 誰か――いるのですか。わたくしのみる幻ではなくて?

 仰天した。

 か細い声は、女性のものと察しがついた。聞き覚えはないが、声が美しいということだけは確実だ。

 どこに――あなたは、どこにいるのですか。

 おかしなことを。わたくしはずぅっと、ここしか知りませぬ。外の世界なぞ、一度たりと見たこともありはしませぬに。そういうお前様こそ、どちらにいらすのです。

 声は、ゆるゆると、途中で途切れるのではないかと思うくらいの時間をかけてそれだけのことを言った。あとは、私の返事を待っているのか、黙り込んでしまう。

 それでも、ふうぅう、という音は聞こえた。

 私は――ランプを灯しています。

 なんとも間の抜けた答だが、彼女との会話が硝子灯にあるとしか思えず、そう言ってみた。

 硝子灯のあかりは、ゆらゆらとゆれ、黒々とした私の分身を作り上げている。

 おや。ではわたくしは、らんぷの精とでも話をしているのやも知れませぬな。それとも――ようやくに気が違ぅたのか。

 あなたの気が違っていれば、私も同じでしょうね。

 ふふ、まあそれでも良いわ。

 そういった声は、だが咳き込み、止まらなくなってしまった。やがて、それがなくなったかと思ったら、いくら呼びかけても返事はなかった。ふうぅう、という音さえも聞こえない。

 それから連日、私は硝子灯に明かりを入れた。女性は、病弱なのか長く話すと体調を崩してしまうらしく、短いやり取りが続いた。

 彼女が大きく体調を崩すと家人が駆けつけてくるようだったが、そういった人の声や物音は、私には聞こえなかった。それは彼女も同様のようで、私が掃除機をかけようと、雷鳴が轟いていようと、知ることはできないようだった。

 そうして私は、彼女が幻でないとしたら、過去の人物であることを悟った。

 明治の末頃の時代を、彼女は生きているようだった。それは、どうあっても超えることの叶わない、絶対の距離だ。

 やがて彼女の話に、縁談のことが含まれ始めた。

 彼女はお屋敷の一人娘で、体が弱くとも、避けることのできない未来だということだった。

 お前様が、声だけ出なければ、つれて逃げてくれとも言えるだろうに。

 戯れと誤魔化そうとした声が、そう言った。

 しかし私には、彼女がいつ頃生まれ、死んだかを知ることはできるかも知れなくても、その人生に干渉することだけは、できなかった。

 そうして――その夜が来た。

 初夜には来てくれるなという頼みを聞き入れた数日後、これで最後にしようと火を入れると、彼女は――それを待っていた。

 お前様か。すまない、これで最後だ。

 何があったんです。

 息も絶え絶えな声に、私は、それだけを押し出すので精一杯だった。

 声は、微笑した。

 切られた。助からぬよ。最期に、お前様が来てくれてよかった。

 厭だ。

 何一つ言葉を出せないまま、伝えることもできないまま、私は、思わず立ち上がったままでいた。

 彼女がいつか死ぬとは、知っていた。過去の存在なのだから、当たり前だと。しかし――こんな終わりは、想像していなかった。望んでいなかった。

 お前様。ありがとう。

 消え入りそうな彼女の声が、本当に消えてしまった。

 それから幾晩も、私は硝子灯をともし続けた。

 彼女が生き延びて、声をかけてくれるかもしれない。もう一度時間を遡り、元気な彼女と話ができるかもしれない。

 ただそれだけを、私は待ち続けていた。

 ねえ、ランプ。貸してねって言ったのに。

 ある夜、母はそう言った。少し拗ねたようなかおで、しかし、駄目なら駄目でいいのよと、付け加えることも忘れなかった。

 私は――母に硝子灯を貸した。

 翌朝、母は火を灯したはずだが何も言わず、ただにこにこと、本当にキレイなランプね、と言ったので、そのままあげてしまった。

 夜遅く、時折、母の部屋から話し声が聞こえるような気もする。思わず部屋に飛び込みそうになるが確信はなく、一度こらえてしまうと、確認する気にもなれない。

 正直なところ、恐くもあった。

 彼女ではない人物が話していれば、あるいは、彼女自身が私のことを忘れたように話していれば。どちらも、厭だった。

 そうして、我が家には硝子洋灯がある。



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