その日、空はきれいに晴れ渡っていた。雲一つなく、風も少ない。春特有の、木々や花々の香りが辺りを漂い、陽[ヒ]が暖かい。あちこちでひなたぼっこをする人々が見受けられた。
「ここね」
旅装の少女――まだ、十にも届いていないだろうか――が城を訪れたのは、昼を少し過ぎた、まだ太陽の高い頃のことだった。
「アイリ様。何かご用ですか」
「・・・用がなくては、居てはいけないのか」
「そんなことはありませんけど」
シンとセレアに頼まれた本を探して書架を歩きながら、セイは溜息をついた。既に数冊抱えているために、二人すれ違うのが精一杯の細い通路をアイリはセイの後ろについて回っている。
「だったら問題ないだろう?」
「今は、アシュラン先生の授業の時間ではありませんでしたか」
突然立ち止まって、アイリを振り返る。
長い髪を肩まで垂らしたまだ幼い少女は、最近急に背が伸びて頭ひとつほども差がついた少年の胸に軽く衝突した。
数冊の分厚い本を左手と棚で支え、右手はアイリの肩をやさしく掴む。
「セイ?」
不思議そうに顔を上げると、以前より幾分精悍さの加わった顔つきのセイが、にこやかな笑顔で応えた。思わずアイリは、凝視する。だがセイは、あっさりとその目を逸らし、アイリの向こう側に目を向ける。
「こちらです、先生。右から三番目の通路です」
「ああ、ありがとう。助かるよ、セイ」
「セイ!」
アシュレイの声に焦るアイリだが、肩をつかまれていて逃げられない。手が離れた、と思ったときには、通路の先に癖のある金髪を束ね、ふちのない眼鏡をかけたアシュレイが立っていた。
「さあ、戻りましょう。今日は隣国の歴史から始めますよ」
優男の教師は、しっかりとアイリの腕を掴み、引きずるようにして図書室を出て行った。熱心に、何かとさぼるアイリを実力行使で部屋に戻そうとする数少ない教師だった。他の多くは、諦めてしまっている。
「裏切り者ーっ」
扉を閉めても聞こえるアイリの叫び声に苦笑して、セイは本を両手に抱え直した。ほとんど眠って過ごしている同僚が眠りを妨げられていなければいいが。
何気なく窓の外を見ると、空は雲もなく晴れていた。
訓練に使った槍を戻した帰り、シンは門前で揉める少女と門番に出くわした。
方や、正装で槍を捧げ持つ中年男。方や、元は鮮やかなオレンジ色だったろうマントから二つに分けた髪が揺れる頭を出した幼い少女。あまりない光景に、シン以外の者――外働きや手の空いている召使や、シン同様の兵士たち――も集まっていた。
「何やってんだ?」
「あっ、シン様」
「様付けやめろって。・・・・で、何?」
「このガ・・・少女が、城に入れろと・・・」
国内でも有力な、発言権の強い家の者であるシン・ガズナを前に、門番は困ったように言った。背筋を伸ばして敬礼までして見せる。その顔には、いくつかの引っかき傷があった。
傷を負わせた主は、もう一人の門番に首根っこを捕まれていた。
「放しなさい! 無礼者、お前の首をはねさせるわよ!」
「この通りで・・・」
「追い払っても、入ろうとするんです」
情けない表情をする門番たちを、周りの者が気の毒そうに、あるいはからかいを込めて見ている。
シンは、「うーん」と唸り、晴れ渡った上空を見上げた。馬鹿馬鹿しくなるほど晴れている。顔を戻すと、少女と目が合った。髪や服装が乱れてしまっているが、瞳は生気にあふれている。ああ、俺はこういうやつを一人知ってるぞと、心の中でだけ呟く。そして、少女に顔を近づけて、ささやく様に小声で言う。
「あー・・・・俺の記憶に間違いがなければ、リンスレット姫、か?」
「ようやく話がわかるのが来たみたいね。早く案内しなさい、アイリとかいう子のところへ!」
さてどうしたものかと、シンは再び空を振り仰いだ。
「あなたがアイリ?」
開口一番、リンスレットはそう言った。
数歳は年下だろう少女に正面から睨み付けられ、アイリは面食らった。少女の後ろに立つシンに目をやる。
「なんだこれは?」
「本人に聞いてくれ。行こう、アス」
「え? 僕はまだ授業が・・・シン、困るよ。シン・・・」
遠ざかって行く声。
アイリが呆気にとられっている間に、少女――リンスレットはアシュレイの座っていた椅子に腰を下ろした。身長が足りず、足が宙に浮いているが、間に机を挟んだアイリにはそれは判らない。
門からこの部屋に来るまでの間に整えたのか、髪は乱れなく梳かれて栗色が艶やかに輝いており、服装も改められている。まだ驚いているアイリを前に、リンスレットは笑った。あざけるようなそれに、アイリが唇を引き結ぶ。
「はじめまして。私はリンスレット・グランドフォード。あなたに忠告をしに来たの」
「忠告?」
「そうよ。あなたはお兄様にはふさわしくないわ!」
そう言ってアイリを睨み付けるが、何しろまだ幼い。アイリはリスにでも睨まれたような、奇妙な気分になった。どうも調子が狂う。
「・・・話が見えないのだが。兄? おまえの兄がどうかしたか?」
途端に、リンスレットは目を大きく見開いた。白い頬が怒りに上気する。
「信じられない! クリスお兄様よ! わたしは、あんたとお兄様の結婚なんて認めないわよ!」
結婚と言われ、ようやく思い当たった。そう言えば、婚約者がそんな名だったはずだ。もう何回か顔を合わせたのだが、興味がないためにグランドフォードといわれても判らなかったのだ。
アイリは、思わず溜息をついた。どうも、あの冒険から帰ってというもの、周りから「結婚結婚」と攻め立てられている。まだ興味もその気もないというのに周りが動くというのは、生まれた頃からそうであったとはいえ、気分のいいものではない。
意識せずに、アイリは机の上で手を組んでいた。
「認めない、でどうにかなるんだったら、私もそうする。そう言ったところでどうにもならないということは、おまえも判っているんだろう?」
静かにリンスレットを見ると、少女は唇をかんで俯いた。
アイリもリンスレットも、同じなのだ。限られた囲いの中でしか自由にできない。人より動かせることは多いはずなのに、身近な、強い願いほど叶えられない。
そのことは、セイが側近の任を解かれたときに改めて思い知らされた。リンスレットはそれが兄の婚約だったのではないかと、アイリは思った。
「ところで、私を認めないという理由を聞かせてもらいたいな」
始めよりも一回りは小さくなってしまったような悄然とした様子で、リンスレットは言葉を押し出した。叱られた子犬のようだとアイリは思い、自分も、セイかシンにそう例えられたことがあったのを思い出した。
「だって・・・・お兄様が。あなたはお兄様のことなんて好きじゃないって、好きな人は別にいるだろうって、言ってたから・・・」
「ちょっと待て、私はそんなことは言わなかったぞ。それは、皆知ってるのか?」
「私にだけ教えてくれたわ」
「それにしたって・・・」
好きな人と言われてすぐに浮かぶのは確かにクリスではないが、それはクリスも同じだろう。それ以前にアイリは、そういった意味で「好きな人」といわれても・・・困る。
助けを求めるように、高い位置にある窓に目を向けた。そこには、薄っぺらな青空があった。
「せーいっちゃーん」
石造りの廊下に、声と足音が反響した。行き交う召使が何人か視線を向けたが、それだけだった。
右手でアシュレイの腕をつかんだまま、左手で大きく手を振る。数冊の本を抱えたまま体を捻って振り向いたセイは、微苦笑して二人が到着するのを待った。
「今、本を届けようとしたところだったんだけど。アシュレイ先生、お早いですね」
「いや、僕はシンに引っ張ってこられて・・・小さな女の子が乱入してきてね」
「小さな女の子?」
「うん。栗色の髪をこう、二つに分けていて、かわいい子だったけど。見たことがない子だったな」
アシュレイが頭に両手の拳をくっつける様はユーモラスで笑いを誘った(実際、シンは遠慮なく吹き出していた)が、セイは微笑で応じるにとどまった。
「緑色の瞳で、八歳くらいですか?」
「そう。良くわかったね」
眼鏡のレンズの向こうで驚きに目を見開くアシュレイに笑いかけてから、セイはシンに本の山を渡した。訝しげに「何だよ?」と言うのに構わず、渡す。
「判っているとは思うけど、扱いは丁寧に。前みたいに痛んでいたら、貸し出し禁止になるよ。貴重なんだから。ああ、それとアシュレイ先生。お探しの本、ありましたよ。入ってすぐの机の上においてあります」
「ああ・・・ありがとう・・・?」
「僕はリンスレット姫に用があるので、これで失礼します」
行儀作法の見本のようにきれいに一礼して、二人の間を抜ける。セイの思いがけない台詞に驚いてそれを見送ったシンとアシュレイだったが、先にシンが我に返り、本をアシュレイに押し付けてセイを追った。
「えっ・・・シン?!」
「悪い、ちょっと持っといて。なんか面白そうなことになってっから」
「シン・・・・」
見逃さないテはないだろと、言う声が聞こえる。
本の重みを感じながら、アシュレイは呆然と見る見る小さくなっていく二人を見送った。本を渡された反動で背をついた壁が、冷たい。
「ちょっとって、どれくらいになるんだろう・・・?」
ちなみに、報告書を届けに行く途中のリンに声をかけられるまで、彼は立ち尽くしていた。シンがアシュレイから本を受け取るのは、それからしばらくしてのことである。
アイリが言葉を見つける前に、扉がノックされた。
聞き慣れた乾いた音に、アイリは救われた気がした。この際、これが例え怒りをたぎらせたセレアだったとしても文句は言わない。
「誰だ?」
「姫様、門番から報告が届いております」
「入れ」
手を回して城内外のことを逐次報告させているのは、ここまでくると意地のようなものだった。知ったから何ができるわけでもなく、ただ虚しいだけだとは判っているのだが。
表情に困っているリンスレットに微笑を向けると、アイリは扉から入って来た召使に目を向けた。見覚えはないが、珍しいことではない。アイリが違和感を感じたのは、爬虫類じみた眼だった。見ているだけで不安を誘うような、眼差し。
似ているというだけならどうしようもない生まれながらのものだが、そういった容姿ではなく、雰囲気とでも言うのだろうか。気配が、残忍さを帯びている。
「こちらは気にしなくてもいい。私の友人だ。そのまま・・・いや、私がそっちへ行こう」
そのまま報告を聞かせろと言いかけて、止めた。立ち上がって、入り口に立つ男に歩み寄る。足元で、生地の多いスカートが音を立てて揺れた。
「私を甘く見るな」
流れるように突き出されたナイフをかわすついでに足を思い切り蹴って、アイリはにっこりと笑った。が、次の瞬間には自分が足をすくわれて、地面に倒れ込む。
倒れたままにアイリの足を掴み、すぐにその咽喉元を右手で押さえつけ、ナイフを振り上げる。アイリは、思わず目をつぶった。しかし痛みはおとずれず、ゆっくりと、アイリは目を開いた。
「甘く見ているのはアイリ様の方ですよ」
「セイ!」
聞き慣れた声に、半分ほど開きかけたまぶたを、勢いよくあげる。
やはりそこには、セイが立っていた。何故かその隣にはさっき部屋を出ていったはずのシンが並び、硬直している男の手からナイフを取り上げていた。セイは男の首筋に指を当てているだけに見えるが動けないらしく、目だけが落ち着きなく動いている。
シンがアイリの首にかかった手を動かし、両手を後ろ手に縛り上げると、ようやくセイは指を下ろした。そして、ごく自然にアイリに手を差し出す。アイリも、ためらいなくその手を取った。
「近衛兵は何をしているんですか」
「後任が長続きしなくてな。今日は、たまたま私の近衛兵が決まっていない日だったんだ。代理が兼任だったものだから、本職が忙しくなって外している。それよりも、どこから見てたんだ?」
「アイリ様が甘く見るなといった直後に転んだところからです」
「・・・裏切り者」
いじけるように睨みつけるアイリに苦笑して、セイは机の向こうで呆然と立ち尽くすリンスレットに向かい、深深と礼をした。
「リンスレット姫、お騒がせしました。そろそろ迎えの方が到着されますので、そのままお戻りください。今回は、王に会われる必要はありません。それとも、お会いになりますか?」
アイリとセイを見比べるようにしてから、リンスレットは笑顔になった。
「お兄様の言った通りね。ええ、帰るわ。今回のことは内密にしてくれるようだしね」
リンスレットの迎えは、王子でリンスレットの兄のクリスだった。シンは大笑いしていたが、セイはジョシュの心労を思って溜息をついた。身につまされる話である。
セイとシン、アイリの三人だけで城に近い森で二人を見送ると、三人は何とはなしに顔を見合わせて、笑った。空は、端から黄昏色に侵食されていっている。
「いくら第一後継者じゃないからって、よくやるよな」
感嘆じみた声をシンが出し、他の二人は少し身をすくめた。唯一の正当な王位後継者のアイリが、セイを連れて家出同然の旅に出たのはそんなに前のことではない。
「そういやセイ、何でリンスレット姫だってわかったんだ? 俺が言う前・・・・あ」
「あ?」
「やばい、ラス置きっぱなしだ。絶対あいつ、あのまま待ってる」
戻りかけて、そのまま右足を軸にして一回転し、二人に向き直る。ま、いいか。どうせヤローだし。そう呟く声が聞こえ、アイリは呆れたかおをした。こんな友人を持つなんて不幸だなと、密かに同情する。
「で、どうして?」
「早文が届いてたんだよ、昨日。人や動物より術のほうが早いから、先に知ることができた。それだけだよ。皆に知らせて騒ぎにはできなかったし、いつ到着するかがわからないから門を見張ることもできなくて、どうしようかと思ってたんだけど。あまり騒ぎにならなくて良かったよ」
刺客以外は、とアイリが付け加える。捕らえられた刺客は、とりあえず牢に入れてある。口を割るとも思えず、もちろん無罪で放すわけにもいかないのだが、そのあたりは後日のことだ。
戻りましょう、とセイが促して足を動かす。随分と仕事をさぼってしまったと――元々仕事などろくにない閑職なのだが、生真面目なセイは掃除や整理など、こまめに自分で仕事を作り出していた――セイが自省する横顔を盗み見ながら、アイリは、別れ際にリンスレットが耳打ちしていった言葉を反芻していた。
『お兄様との婚約を破棄するつもりなら、いつだって協力するわよ』
アイリは、以前セイがクリスに似たことを言われ、そのときどう返したかも知らないまま、ぼんやりと取り止めのない思いに駆られるのだった。
空には、気の早い星が輝いていた。
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