刻語り

 最初に彼女を見たのは、枝垂桜の下だった。風に花びらが舞い、枝が揺れていた。

「お前、鬼だろう」

 女は、枝垂桜の隣の木の上の黄桜を見上げながら言った。長い髪が風に掻き回されるが、さして気に止めた風でもない。上等な着物と帯は、だが惹き立て役のようだった。

「皆が鬼だと言っているのは、お前なのだろう?」

「だとしたら、どうする」

 桜は苛立っていた。人を呼ぶなら早くすれば良い。このように静かに見つめられるなど、居心地が悪いだけだ。

 女は、少し笑ったようだった。優美なそれに、一瞬気をとられる。

「私の名は清[キヨ]だ。お前の名はなんという?」

 桜は応えなかった。

「それなら、私はお前を鬼と呼ぶ。それでも良いのか?」

 睨んでも、怯む様子はなかった。目を逸らす事もしない。桜にとってそれは、新鮮でもあった。

「だって、名乗らないのなら仕方ないだろう?」

「覚えて置け。鬼にしたのはお前達だ」

 まだ遠くにある人の気配に、身を翻す。この女に構っていれば、不味い事になるかもしれない。女は、止めるでもなく言った。

「鬼。またここに来なさい。私は暇なのだよ」

 全く可笑しな女だと、桜は思った。 



 それから、二人は幾度となく会った。気が合ったともいえるが、それよりも、二人とも淋しかったのだろう。他愛ない話や、互いに、他では出さない弱音も言った。 

 何も変わりはしない。桜は大陸産まれで西欧の血も混ざった母から受け継いだ容姿のために「鬼」であり、清は誰からも名を呼ばれぬままにこの近辺を治める男の妻のままだ。

 鬼と呼ばれる盗人と、奥方と呼ばれる女の、無害な密会。それは、何時も枝垂桜の下だった。花が散り、葉が散り、再び花がつく。毎年繰り返される光景が、今までとは違って見える。ただ、それだけだった。

「桜が咲いてるの?」

「うん。取ってこようか?」

 桜の家は、人のあまり来ない山奥にある。家といっても、猟師の山小屋程度のものだ。それも、かなりがたが来ている。だが、桜がそこに戻らない日はない。そこには、唯一の家族がいるのだ。

「いいわよ。折角綺麗に咲いてるんだから、無理矢理取っては駄目よ」 

 殺風景な小屋の中には、いつも童顔の少女がいた。赤色の瞳が、桜を見て嬉しそうに和む。白に近い銀の髪は、そのまま肩に垂らされている。体が弱いから、あまり外には出られないでいる。

「あ、でも」

「駄目だよ」

「まだなにも言ってないでしょ」

「そう? 俺はまた、花見酒は欲しいとでも言ったかと思ったんだけど?」

 少女のかおが、一層幼くなる。むくれているのだ。

「少しくらい良いじゃない」

「ほら、やっぱりそうなんじゃないか。駄目だってば。姉ちゃん、酒飲むと怒るし泣くし、笑うし。いつもの四倍は手かかるんだから」

「そんなことないって」

 本人は酔って記憶がないのだから、本気で言っている。それが手に負えないんだよと、桜は内心呟く。

 いつもの光景だった。

 両親は既にない。――「鬼」と「鬼」をかくまった者として、村人たちに殺されたのだ。それでも、今でもそれなりには幸せだと思っていた。適当に盗みを働いて、この辺りの領主の妻の「女」と話して、帰ったら姉がいて。

「桜。いつでも、私のことは気にしないで行ってしまっていいんだからね」

 例え、白刃を踏むような、霞みを集めるような、そんな「幸せ」だとしても。

「そんなこと言って、置いて行ったら怒るんだろ?」

「ううん。ほんとの話」

 柔らかく微笑む。姉は、自分が桜の荷物になっていることを知っていた。桜が、自分のことを大切に思ってくれていることも。そして、自分も何よりも弟を大切だと思っていることを。だからこそ、今までは冗談で返せば、冗談で応えてくれた。

「嘘だよ。姉ちゃん、絶対怒るって」

 変化が訪れようとしている事に、気付かないふりをしようとしていた。



 その日、女はいつものように枝垂桜の下から帰っていった。城には何もないが、それでもそこが彼女の帰る場所だった。

 己の名さえ忘れそうになっていたのに、それをなんとも思わないほどに己の中身が空虚になっていたのに、誰も気付いてくれなかった。誰一人として、気付かなかった。夫とは、もう一週間近く顔も合わせていない。自分に興味がない事など、ここに来てすぐに判った事だった。

 だから、あの少年――鬼と呼ばれる少年との時間が、何よりも大切だったのだ。桜は、遠慮などしない。付加価値ではなく名を、呼んでくれる。それだけで十分だった。

 その桜がはじめて城内に来たのは、深夜の事だった。

「清、居るか」

「桜?! どうしてここに?」

 外からの声は、間違いなく桜のものだった。この部屋は清の私室とはいえ、危険な事には変わりない。侵入者が、まして鬼と呼ばれる者が、無事に入れるところではない。

「来るな」

 桜が見えるところへ行こうとした清を止めた声は、叱責のようでもあり、哀願のようでもあった。その声に、動けなくなる。

「…姉ちゃんが、殺された。誰かが、俺の後をつけてたんだ」

 きっと、清と会った後を。この城の者だろうことに、確信はあったが言わなかった。

「鬼だから、殺すんだって。鬼はいちゃいけないんだって。――望むなら、鬼になってやる」

 押さえていた声に、憎悪がたぎる。前に言った言葉よりも、それは「鬼」に近かった。それが最後だった。

 何も、出来なかった。

 そしてそのまま、空虚な日々は流れて行くのだった。「鬼」の噂も、もう聞かない。女には、桜が本当に「鬼」になったのかさえ、知る事は出来なかったのだ。


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