左手で古びた装丁の本を抱え、右手で机の上を探る。眼鏡のレンズ越しの視線は活字に集中しているらしく、平らな机の表面を撫で回すだけに終わっている。
窓の外では、一面の桜が涼やかな風にそよいでいた。
「タイレン、いいかげん手元を見てはいかがですか」
白い髪に紅い瞳の少年が、溜息を堪えて言う。言われた方は生返事を返し、相変わらず手が机をなでている。少年はそれを呆れたように見、離れたところにいる自分そっくりの少年に目を向けた。
良く似た、ただしこちらは黒い髪の少年は、同じく書物に目を落としながら、手を振って応える。
「無理ムリ、今のタイレンに言ったって・・・」
「なんだ、そうか!」
青年は、嬉しそうに声をあげ、ようやく本から顔を上げた。自分に注目している二人に気付くと、線の細い顔に極上の笑顔を浮かべる。ついついひきこまれるようなそれを見て、紅い瞳の少年二人は顔を見合わせた。互いに、相手の顔に呆れを認める。
「桜が必要だったんだ。お前達、取ってきてくれないか」
上機嫌で言い、手が机を撫で回して汚れていることにも気付かない。二人は、それを見てくすりと笑った。こういったところで子供よりも無邪気なのが、彼らの師なのだ。
「はい。外からの方がよろしいですか?」
「何?」
「外も春になったんですよ。お気づきにならなかったんですか」
「またかよ、タイレン」
黒髪の少年がぼやく。その声は、決して悪意のこもったものではない。青年は、素知らぬ顔で呟く。
「そうか。それなら、会いに行くかな」
利根川成一[とねがわ せいいち]は、桜黄桜[さくら きおう]と酒を飲んでいた。生ぬるい風に桜の花が散り、二人に降り注ぐ。
「俺、お前に新しいバイト先言ってたっけ?」
「いや」
「なんでわかった?」
「まあ、なんとなくな。お前は判りやすくていい」
木の幹に体を預け、黄桜が微笑む。頭上では桜が見事な花を開いている。目の前が墓場でさえなければ、おそらく夜桜見物で込み合っていただろう。
成一は、誰のかも知らない墓を見るでもなく見ながら、眉間にしわをよせた。
「どういうことだ、それは」
「何、そのままの意味だ。誉めてるんだ、少しは喜べ」
「できるか」
それだけ言って、酒を口に含む。
黄桜がバイト先の居酒屋に来たとき、成一は思わず追い出しそうになった。居酒屋に酒を大量に持って入るなど、喧嘩を売っているとしか思えない。
『隠すならともかく、堂々と持ってくる奴があるか』
『ここで飲むつもりは無いさ。どうだ、今日。桜が綺麗だぞ』
その前に会ったのは正月だったが、何一つ変わっていないように見えた。一月で大きく変わってしまう者もいるというのに。どころか、出会って以来黄桜は変わっていない気がする。そして、それは多分事実だ。
「なあ、黄桜」
「なんだ」
「お前、まだあそこにいるのか」
年中桜の咲く、一見のどかな世界。黄桜はそこに二人の少年と一緒に暮らしている。二人が出会ったのは、そこでだった。迷い込んだ成一は、そのとき中学生になったばかりで。
「ああ。怖いか?」
「何がだ」
「俺がだよ」
思わず顔を見ると、眼鏡のレンズで表情が隠れている。いや、隠している。
「馬鹿か」
新しい酒をあける。黄桜の瞳が、レンズの奥で優しくゆたうのが判った。
あけたばかりの酒を自然に成一から奪い取ると、口をつけて破願した。
「今度、トゥーインとトゥーヤンも連れてこようか。あいつらも、お前のことを気に入っていたからな」
紅い瞳の少年達を思い浮かべると、自然と口がほころんだ。末っ子だった分だけ、あの二人がなついてくれたことが嬉しかった。あの二人も、きっと黄桜と一緒で歳をとらないのだろう。
不意に、黄桜の顔から笑みが消えた。視線の先には、今では珍しくなった濃い闇が横たわっている。
「やれやれ。花見もゆっくり出来ないか。悪いな、成一」
「慣れてるさ。お前と会ってから、いつもこんなことばかりだからな」
「悪い。酒でも飲んで待っていてくれ」
そう言って、無造作に外した眼鏡を投げ捨てる。黄桜の眼鏡はただの装飾具であって、視力矯正具ではない。それでも、扱いのぞんざいさに慌てて成一が受け止める。
闇は、形をとり始めていた。鳥に。
「いい加減、無駄だってことを理解してくれても良いのにな。貴様等が俺の力にひかれるのは勝手だが、敵わないことくらいは理解しろ。分をわきまえるんだな」
手近な枯れ枝を取り、闇の塊に向ける。顔には、何の感情も浮かんでいない。
この光景を見るたび、成一は怖くなる。黄桜がではなく、彼がどこかに行ってしまうのではないかと思ってしまうことがだ。そんなはずが無いと思いながらも、不安になるのだ。
枝がほのかな光を帯び、いっそう闇を強調する。おぞましい鳥の姿をしたそれが、黄桜目掛けて飛びかかる。素早く突き出した枝に刺され、霧散した。ただそれは、無声映画のように。
「馬鹿が」
呟き、無言で成一から眼鏡を受け取った。レンズの向こうには、淋しげな光が覗える。
「怖くは無いか」
「何度も言わせるな。あれよりも、よっぽどお前の方が馬鹿だぞ」
「…そう、だな」
合わせるでもなく、二人は桜を見上げていた。風が吹いて、花弁が闇を埋め尽くす。それは、阻むようであり、護るようでもあった。
「タイレン、起きろよ。朝だぞ」
黒髪の少年、トゥーインが戸口で眠り込んでいる黄桜の体を揺する。白髪のトゥーヤンは朝食を作っている最中だ。
「…もう少し…」
「…しばらく飯抜きでいいなら、ほっとくけど」
唯一食事を作れるトゥーヤンは、作ったものを無駄にされることを一番嫌い、そうするとしばらくご飯を作ってもらえなくなる。そしてその場合、三人そろって食事を採らないことになる。彼は自分一人だけが食事をするつもりは毛頭ないのだ。
「できましたよ」
笑顔と声に、決断を迫られる。トゥーインは、半ば諦観の心境に入っていた。これでまた、しばらくひもじい日が続くのか。
「ああ、行くよ」
ふらつきながら、立ち上がる。昨日の花見がまずかったのだ。酒にはまず酔わないのだが、あの後長々と飲んでいたせいで睡眠不足なのだ。黄桜の一番の敵は寝不足であるといっても過言で無いような体質だというのに。
「大丈夫ですか?夜通しで飲んだりするからですよ」
「ああ。今度からは昼にするとしよう。それでトゥーヤン、どうしてこんなに量が多いんだ?」
「昨日突然行かれたので、昨夜の分がまだ残っているんです」
黄桜にとってその笑顔は、昨夜の闇の鳥よりも怖かった。
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