校門をくぐろうとした知代は、振り返って軽く眉をひそめた。呼ばれた気がしたのだが、違っただろうか。
周囲を見回してから、再び歩き出す。特に用事もないのに早足になるのは、大学に入って電車通学になって以来の癖だった。電車で二、三十分といっても、目の前で乗り過ごすのは悔しい。
馬鹿みたいだと思いながらも、つい、足は速まるのだった。
「おーいっ、如月さんってば。待って待って」
「・・・?」
振り向くと、ブルージーンズにコットンシャツという、やけにさっぱりとした格好の青年が走ってきていた。
誰だろう、と思っていると、青年は知代の前で足を止めて、無造作に目を覗き込んでくる。つい、眼を逸らしてしまう。
「あっ、そんな露骨に、知らないってカオしないでよ。変質者じゃないしさ、俺。同じクラスの相原だって。相原一馬」
黒に近いが、確実に茶の混じった短い髪。やや吊り気味の眼。高校の一年生といっても通るのではないかというくらいには、どこかに幼さが残る。知代よりも、何センチかは背が高いだろうか。
見たような気もするが、あまり覚えていない。
そんな様子を察して、青年、相原は少し困ったような、しかし愛嬌のある笑顔をつくった。
「覚えてない? 最初の自己紹介のとき、寺の小坊主で将来大坊主になるって言った」
「ああ」
「覚えててくれた?」
人懐っこく笑う。
大学ともなれば名ばかりのクラス制度だが、入学式のオリエンテーションの後では、わざわざ自己紹介の時間を設けていた。その中で相原は、「寺の後継ぎなのに、何故神学部に」という驚きと人目を惹く華やかさで、おまけに笑いも取っていた。
そういえば、そんなこともあった。
大学に入ってからの友人がいないわけではないが、もともと友達の輪を広げようという殊更な努力もしない知代にとって、それらはわりとどうでもいいことに分類されていた。
さすがにそんなことを本人を前にして言えるわけもなかったが、必然的に、知代の応対は素っ気無いものになっていた。
「何か用?」
「ちょっと時間、ある?」
「・・・あると言えば、あるけど」
「じゃあちょっと、付き合ってくれない? お茶おごるからさ」
今日中に片付ける家事を思い浮かべながらも、知代は肯いていた。相原について、後にするはずだった校内へと足を向ける。
断ってもよかったのだが、なんとなく、気が向いた。――人懐っこさが、大切な友人を思わせたからかもしれない。
連れて行かれたのは、キャンパスの外れにある部室棟のうちの一つだった。「落語研究会」と書かれた、薄汚れたプレートがかかっている。
奥に入って行った相原は、冷えた缶コーヒーを二つと菓子の袋を幾つか、持って現れた。
「コーヒー平気?」
「平気だけど。・・・部の勧誘なら断るわ」
「いや、そうじゃないけど」
受け取ろうとしない知世の前に缶を追いて、自分は先にプルトップを開ける。視線をさまよわせているところが怪しかった。
「ただここ、他は四年の先輩ばっかだから人がいなくていいかなって――考えてみたら、それ逆にやばいし汚いし、駄目だよね。ごめん、食堂にでも行こうか」
知代の向かいに下ろした腰を落ち着ける間もなく立ち上がる。慌てているのか、飲みかけの缶コーヒーを持ったまま、ドアノブに手をかけた。このまま行けば、相原のカバンは置き去りだ。
知代は、思わず苦笑していた。
「いいわよ、ここで。でも、暑いから窓は開けてね」
「あ、うん」
「それで、用件は?」
「うっ・・・」
窓を開ける背中がぴたりと止まり、溜息を一つついて、静かに窓を開ける。気の早い蝉の鳴き声が、聞こえていた。
そうしていやにそろそろと、相原は知代の向かいのパイプ椅子に戻った。知代が訝しげな視線を向けているのにも気付かないのか、真剣な面持ちで、目をつぶって深呼吸をする。
「あの。俺と、付き合ってもらえませんか!」
真っ直ぐな眼でひたと見つめられて、再び知代は、顔ごと目を逸らした。
「どこかに行く、とかじゃなくて?」
「・・・うん」
最低の台詞だと、軽く自己嫌悪に陥る。横を向いているのも苦しくて、仕方なく、視線を膝に落とした。
「・・・ごめん」
「そっか。ごめん、俺こそ・・・」
言葉は、途中で消えた。その前の知代の台詞からも察してはいたのだろうが、それにしても辛そうで、居心地が悪かった。
窓の外には、初夏特有の光が溢れている。
「そういうの、考えてもみなかったから」
ぽつりと、呟くような声が出た。
「高三の冬に、受験先のランクを上げたの。がむしゃらに勉強した。そうすれば、何も考えずにいられたから。何も、考えたくなかったから」
まだ、二年も経っていない「昔」のことだ。雪の多い日に、親友が死んだ。
そのときの不可思議な体験は、今では夢だったように思える。死んだ後に会いに来てくれるなどと、そうして、二度と会うことはなくてもまだこの世界のどこかにいるのだという、都合のいい夢を見たのではないかと。
それでも、街中で似た人を見かけると立ち止まってしまうのは、夢だと思い切れないからだろうか。それとも、親友の死から未だ立ち直れていないだけなのか。
そんな事情は知らないはずだが、何かを察したのか、相原は何も言わなかった。
知代は、もう一度だけ「ごめんなさい」と告げて、立ち上がった。ドアに手をかける。
「如月さん」
元通りの明るい、しっかりとした声に振り返ると、相原は真剣な眼差しを向けていた。
「俺、まだ諦められないから。これから話しかけたりとかすると思うけど、好きになって欲しいなんて言えないけど、避けないでいてくれると・・・嬉しい」
「・・・・・・どうして。私なの」
「どうしてだろう。講義きっちり受けてて、あんまり笑わなくて、俺みたいな軽い奴は苦手だろうなって、とっつきにくそうな人だと思ってた。最初は。でも、図書館で見かけたとき、淋しそうに見えた。どうしてか、判らなかったけど。・・・多分、それがきっかけだった。――如月さん?」
突然慌てる相原に、知代はどうしたのだろうと思った。いや――どうかしたのは、自分だ。
止まらない涙に思わず伸ばした手を濡らして、呆然と、立ち尽くしていた。
「ごめん!」
「・・・ちがう・・・」
相原のせいではないと、言わなくても察してくれたようだった。それでも途方に暮れた顔で、相原は部室を見渡して、近くの布を取った。学際のために、クリーニングに出してきたばかりの羽織だった。
知代に頭から被せる。
「ここ、開けたままでいいから。誰も来ないから、気にしなくていいよ」
足音で、出て行くのが判った。
ごめん、と呟きながら、知代は好意に甘えることにした。ただただ溢れる涙が何なのか、自分でも判らなかった。
しかしそれが、かけがえのない友達が懐かしいものへと変わっていく、きっかけだということは判った。忘れるわけではなく、やはり大切には変わりないのだけど、あのときのものとは変わる。
――ひとしきり泣いてから、やはり明日も一見変わらない日々が続くのだろうと、知代は思った。相原には、恋愛感情を持てるかは別にしても、礼を言いたいと思うのだった。
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