手首に伸ばされた果物ナイフを、寸前で止めた。
「早まるなよ」
「・・・和・・・之・・・・・・?」
信じられない、と言うように、道子が目を見開いた。ああ。俺だって、信じられないさ。
それでもこの手は、道子を掴める。止めることができる。
「間に合った、よな、今度は」
道子は、呆然としながらもこくりと頷いて、うつむいたまま、静かに涙を流していた。俺はそれを、そっと抱きしめた。
そうして気付くと、道子は眠ってしまっていた。
不安にさせて、ごめん。一人にして、ごめん。言葉にはしなくても、ずっとそう呟いていた。
夏が近いとはいえ、風邪をひくだろうかと、一旦道子をソファーに運び、布団をかけた。泣いて腫れた目元が、痛々しい。
部屋の中は荒れていた。
俺がいなくなって、一週間もしないうちに、これだ。道子は今までに何度も自殺を図り、一度は集中治療室にも入った。それだけ弱くて、純粋な人。
彼女を、守りたかった。
「刻限が近い」
音もなく現れたのは、二十歳そこそこだろうのに着流し姿という、奇妙な青年だった。
「・・・ああ」
「別れを告げるのなら、起こした方が良いのではないか」
「ああ。判ってるさ」
別れを告げるなら、な。
全く警戒していなかった青年の胸を正確に、道子の持っていたナイフで突き刺した。手応えもあり、ナイフを抜いてしまえば、すぐにも失血死するだろう。いや、ショック死か。これでも、医者の端くれだ。間違いはないだろう。
これで、この先も道子の側にいられる。
短い最後の挨拶など、冗談じゃない。だからこそ、こうして、凶器を持っても不思議ではない状態を待った。
「悪いな、あんたに怨みはないが、邪魔なんだよ」
「さて、そう言われても」
ナイフを抜こうとしていた俺は、何の支障もなく吐き出された言葉と、痛がる様子もなく動いた青年に瞠目した。
男は、自分で胸のナイフをひき抜いた。そのまま、床に落とす。
血の一滴も流れていないことに、今になって気付いた。
「お・・・お前。っ、何者だ!」
「さてな。化け物と呼ばれたこともあるな。元は、ただの人じゃよ」
平然とした男は、真っ直ぐに俺を見つめた。
「わずかじゃが、時は残っておる。どうする」
「・・・っ、わあっ!」
男の落としたナイフを拾い上げ、切りつける。どんな化け物でも、賽の目に切り刻まれれば平気ではないだろう。時間稼ぎでいい。道子をつれて、逃げよう。
だが男は、いつの間にか手にしていた、青い棒で打ち払った。
瞳のあれは――あわれみの色か?
頭に、血が上った。
平野道子が目を開けると、夫が、棒に体を貫かれていた。
「ッやああぁあぁっ!」
わけもわからず、叫びがほとばしる。無我夢中で伸ばした手の先で、夫は、霧散した。
呆然としていると、す、と、棒を持った男が近付く。
道子は、叫び声を挙げたまま後ずさろうとして、先程落ちたソファーに邪魔をされた。
覗き込んだ男の目には何故か、沈痛の色があった。それに気を取られていると、そっと、手がまぶたにあてられた。眠気が、襲ってくる。
「お主の夫が、心配して会いに来てくれた。それだけのことじゃよ。それだけを、覚えておきなさい」
眠りに落ちるまでの短い間に、男の声は溶け込んだ。
道子が再び眠りにつくと、男は、苦い溜息をこぼした。
「時は残り少ないと、言うたのにな・・・」
思わずといった風の呟きを、聞く者はない。
やがて、男は部屋から姿を消し、道子の寝息だけが残った。彼女が目を覚ますのは、日が昇ってからのことになるだろう。
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