死んだはずの人間から電話がかかってきたのは、何の変哲も無い夜だった。
『葉山? どうせまた、家でごろごろしてるだけだろ? ちょっと学校出て来いよ』
耳に馴染んではいるけれど、電話を通した声は少しいびつな気がした。
この場合の学校というのは、間借りしている下宿先のアパートから歩いて五分といった距離にある大学のことだった。
「ああ。何か持ってく物あるか?」
『いや? ああ、呑みたかったら酒でも。菓子でもなんでも好きなように』
「・・・何するつもりだよ?」
『ま、来りゃわかるって。じゃあ待ってるからな』
返事も待たずに、通話が切れる。生前と同じだった。
借りた当初から備え付けだった黒電話の受話器を置くと、俺は一瞬考えて、財布と鍵、それと薄手のナイロンパーカーだけ掴んで、部屋を後にした。
外は秋独特の涼しさがあって、一応戸締りはしておくにこしたことはなく、身元証明を煩わせたくはなかったからだった。
「おーい。どこだー?」
間抜けにも、聳え立つ校舎を前にして、抑え目ながらに声をあげた。
学校に出て来い。
そう言われて来たはいいものの、どこで待っているのかがさっぱりわからなかった。携帯電話は迂闊にも置いて来たし、いつも待ち合わせているお決まりの場所、なるものもなかった。
そもそも、あいつとはまだ付き合いが浅いのだ。ゼミが一緒だったにも関わらず、前期の間はほとんど口を利いた覚えがない。
「・・・そんな奴に殺されるなんて、お前も運がないな」
「って、勝手に殺すなよ」
「っ!」
気配もなく隣に並んだ男に驚いて、変な間合いで息を呑んで、噎せた。
男――弘前彼方は、チェシャー猫のようににやにや笑いを浮かべる。夜なのに晧々とついている校舎の明かりの下で、煙草の煙が揺れた。
煙草も、ジーンズにシャツという格好も、あの日のままだった。切り損ねたという、少し伸びた髪もそのまま。
「大体、そんな奴ってどんな奴? 葉山クンの悪い癖だねー、物事を悪い方から考えるの。世界は憂い事で溢れている、って?」
「・・・相変わらず、口が減らないな」
「そりゃね。何せ、口から先に生まれて、ストックだって一杯ありますから。で、眉間にしわ寄せながら生まれてきた葉山クンは、今回は何悩んでんのかなー?」
軽く、めまいがする。
馬鹿は死んでも直らないというあれは、本当らしい。いや、こいつの場合、馬鹿でないと言えば馬鹿ではないのだけど。そういう意味では、よほど俺の方が馬鹿なのだけど。
それにしても。
「お前みたいに悩み事がない奴は、いっそ尊敬する」
「そいつはありがとよ」
「それで、用件はなんだ?」
「ん? まー、お前のことだから、どうせ俺殺しちゃったー、とかって罪悪感で苦しんでのかなって、こうやって出てきてやったわけよ」
煙を吐き出す。
煙が上がる様は、火葬場を思い出させた。煙突から上る、遺体を遺骨へと換えて行く、煙。
「お、やっぱ図星か。出て来て正解だったな?」
どこまでもふざけた調子で、弘前はにやりと笑う。冗談じゃない。
「と――。もう時間?」
俺が口を開くよりも先に、弘前は光の届いていない彼方へと視線を向け、言葉を発した。見ると、闇に潜むようにして、男が一人、立っていた。時代を間違えたかのような、着流し姿で。
「・・・急ぐんじゃな」
「わかった」
短く応えて、俺には何の説明も無しに、弘前は深く煙草を吸うと、地面に落として足で消した。
「じゃあま、さくさくと済ませることにするか。つまりはだな、お前が責任を感じる必要性も必然性も、どこにも微塵もないってことだ。酔っ払って絡まれて死ぬなんて、そりゃ自業自得以外の何物でもないだろ」
きっぱりと、笑い顔で言い切って、弘前は軽く俺の肩を叩く。
「そういうことだ。じゃあな」
「待て!」
思わず、行きかけた弘前の腕を掴む。
だって、だって。こんなのは、ない。逝きそびれた幽霊は、恨み言を言うものだ。怨霊になって、憎い相手に恨み言を言って、そうして殺すのだ。そうでなければ、そう在らなければならないのだ。
なのに。
「何で・・・違うだろ、俺のせいだろ。酔っ払ってたお前を、置き去りになんかしなかったら良かったんだ。ちゃんと安全なところまで連れて行けば、良かったんだ!」
呪い殺されて、それでいいと思った。電話がかかってきたとき、そういう意味では、喜んだのだ。
これで罪が、裁かれるのだと。
「う―――ん」
唸って、弘前はちらりと、着流しの男を見たようだった。それから、掴んでいた俺の手を振り払うと、正面から俺の両肩を叩いた。
「まあそりゃあな、チクショウこの野郎、と思わなかったって言や嘘になる。どうせ会うなら、目一杯びびらせてショック死でも狙ってやろうかって、考えもした」
「じゃあ!」
「でもな。違うだろ。いいか? 俺は、死んで、何でまだここにいるんだろうって思った。そこにあの男が現われて、色々話して、最後に誰かに会わせてやるって言われた。そりゃあ一杯浮かんださ。家族に恋人、腐れ縁の幼馴染、初恋の娘や世話になった先生とか、意気投合した友達とか。でも、一番気になったのはお前だ。わかるか?」
「それは――」
「恨んでじゃないぞ。最初に会ったときから思ってたんだけど、葉山、お前馬鹿なんだよ」
絶句。
思わず、それまで抱えていた悲壮感も何もかも放り出して、弘前をまじまじと見返した。何か――酷いことを言われている気がする。
「要らないところで悩んで、責任感じて、貧乏籤ばっか引いて。正直、よくここまでまともに生きてきたなと思ったよ。で、だ。ロクダイに話聞いてるうちに人が来て、発見されて大騒ぎになって。どうする、って訊かれて、葉山の奴、馬鹿みたいに責任感じるんだろうなあ、って思ったわけよ。あいつ、俺の家族前にして、『すみません、俺のせいです! 俺が殺したんです!』なんて泣きながら言いかねない、と。まあ、さすがに言わなかったからちょっと安心したけど。そもそも酔っ払いの男、うやむやのうちに押し付けられたのが災難だってのに」
そこまで呆気に取られて聞いていた俺に、弘前はにやりと笑いかける。新しい煙草に、火をつけたようだった。
「あのな。誰がどう言おうがどう思おうが、俺が納得してるんだ。それをまだぐちぐち言うなんて、故人の意志無視して酷いことやってるんだぞ。自覚あるか?」
「なっ・・・」
「そういうことだ。ああ――夢じゃない証拠にこれやるわ。もらいもんの外国産だから、滅多やたらに転がってないぜ。記念にもいいだろ」
缶入りのタバコを投げて寄越して、弘前は振り返らなかった。
そのまま、闇に消えていった。
残された俺は一人、微妙にぬくもりの残る間を握り締めて、馬鹿みたいに立ち尽くすしかなかった。――馬鹿はどっちだ。
葉山の視界から消えると、弘前彼方は顔をしかめた。
「なあ、ロクダイ。俺、馬鹿かな?」
「さてな」
青の細長い棒を片手に立つ青年の微笑は、意外にも優しかった。
弘前彼方は、壁にもたれかかって煙草を吸っている。
「時間――もう、終わりか。待ってくれてありがとな」
「この世」に長く留まる分だけ、危険が増し、青年たちの手も煩わせる。それでも付き合ってくれた青年に、弘前彼方は、かなりのところ感謝していた。
本当なら、一週間前に尽きていた命。思考。行動。
――伸ばす手段はあったらしいが。弘前彼方は、それを聞かずに断った。それでも、意志が強いと言われるのは悪い気分ではなかった。
「んじゃま、行きますか。って、俺が仕切っても仕方ないんだけどな」
微笑して、青年は歩くよう促した。
場所を移動しなければならないらしい。桜が見事じゃよと、青年は言った。しかし回り道には違いないらしい。
「ほんと、手間取らせて悪かった」
いや。青年は首を振って、綺麗に微笑した。
「なかなか見事じゃったよ。仲間になれんのが残念じゃ――」
秋の夜長。虫の声が響いていた。
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