「帰ろう、純」
「え・・・・? あ。うん。待って、まだ荷物まとめてな・・・」
かばんをつかんだ拍子に中身が飛び出た。なんだか、今日はずっとこんな調子。間違えて他のクラスに並んじゃうし、何もないところでつまずくし、先生の話を聞いてなくて一人出遅れるし・・。普段はまだましなんだけどなあ。
「何やってんだよ。入学早々これじゃ、先が思いやられるな」
「うるさいなあ。謙ちゃんこそ、・・・」
「こそ? 俺に問題なんてあったっけ?」
・・・・ない。
謙ちゃんこと尾崎謙一は、実に器用な自慢の弟だ。小さい頃から入退院を繰り返していた私とは、比べ物にならないくらいに。本当は、この学校だって・・・。
「もっと別のところ、行けたのに」
気付くと、声に出していた。でも、謙ちゃんの表情は変わらない。明るく、冗談を言うかのように。
「なんだよそれ」
「謙ちゃん。無理してここ来ることなかったんだよ」
「知ってるか、ここって美人が多いんだぞ」
「あーあ。こんなのと同じ学年なんて、嫌だなあ」
「何を言うか」
去年一年をかけて治療に専念した私は、他の子より一つ下、謙ちゃんと同じ学年になった。仕方がないとはいえ、やっぱり少し悔しかった。
「俺と同じなんだぞ。滅多にない体験なんだから、ありがたく思え」
「どこをどうありがたく思えばいいの?」
「真顔で返すか・・・」
「ほら、早く帰らないとお母さん待ってるよ」
私は、そのまま教室を出た。後ろから謙ちゃんがついて来るのがわかった。いつも、いつもそうやって少し後からついてくる。それは、小さい頃から変わらなかった。
はじめは追いつくため、次は守るため。――それくらいは、自惚れてもいいだろう。
「謙ちゃん」
「ん?」
「いつもありがと」
「何が」
「色々と」
家はもうすぐだった。家から近い。それも私があの学校を選んだ理由の一つなのに、今はそれが口惜しい。
「純にそんなこと言われると、なんか気味が悪いな」
「・・・知らないでしょ。私もう、思いっきり走っても大丈夫なんだよ」
視界がぼやける。泣きたくなんてないのに。
「ひとりでも歩いていけるんだよ」
「知ってた」
負けず嫌いな、でも優しい声。
その後、家の前に立ち尽くしていることに気付き、中に入ろうとした。その家から、お母さんが飛び出して来る。
「純。今、謙一が・・・・」
いつもは穏やかな顔が、やつれてしまっている。少し、迷った。もういないから。
「お母さん落ち着いて。伊藤君と一緒になっただけだよ」
「でも・・・」
「謙一は、もういないんだよ」
「・・・・そうね」
もう少し、時間が経ったら。私を含めたみんなが、謙一が死んだことをちゃんと受け止められるようになったら。きっと、今日のことを話そう。謙一が一回こっちに戻ってきちゃったんだよ、って。
謙一は、自分の家が見える公園のベンチに座っていた。その隣には、同年代の男が立っている。
「美人だろ、純。なんか、姉っていうより妹って感じだったんだよな。で、転落死、だっけ? 俺の死体、キレイなままだった?」
「見てないのか」
「判らない。覚えてないんだ。気付いたら、あんたの店の前に立ってた。俺、もっとあっさりしてると思ってた。死んだときは即成仏するんだって」
家にめをやる。今は、姉も母もいなくなっている。
「それが、これだもんな。情けね―」
思いがけず小さなきっかけで死んでしまった自分が。死んでもまだここにいる自分が。
「気にするな。誰だって似たり寄ったりだ」
「・・・それって、俺が情けないって認めてる?」
「そういうことになるかな」
男が、素知らぬかおで言う。
「ひっでー」
笑う。それだけで、随分気が楽になった。
謙一は知らなかった。男――正義が自分を指して言ったことを。彼が純に、似ていないはずの自分の姉を重ねていることに。
やおら、謙一は立ち上がった。癖で、ついてもいないズボンのほこりを払う。
「わがままに付き合ってくれてありがとな。で、道だっけ? あの世に行くってのは。どこにあるんだ」
「悪いけど、店に戻ってくれ。あんまり時間が経ってなかったり小さかったりしたらすぐに行けたんだけどなぁ」
「へえ、色々あるんだな」
「まあな。一応これ、公務員だから」
「永久就職の公務員?」
「かもな」
連れ立って、公園を出て「月夜の猫屋」に向かう。遊んでいる子供たちは、特に気にも留めなかった。
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