あるヒトコマ

――5:30

 『猫屋』上部にある居住区で真っ先に目を覚ますのは、大抵征だ。

 目覚まし時計も使わずに目を覚ますと、手早く身支度をして正義の部屋へ向かう。季節が初冬のため、外はまだ暗い。

「セイギ、起きろ。頼んだぞ」

 その声とノックの音に、正義が己の眠りの浅さを呪いながら起き上がる。半ば無意識に、寝癖のついた頭で、洗面所へ行くべく歩き出す。既に、征の姿はなかった。 

――6:14

 テーブルの上には、伏せられた茶碗と汁物の器がある。他には、卵焼きに漬物、キンピラゴボウなど。少しばかり時間の余った正義は、彰がスーパーでもらってきた出来合いのキンピラゴボウに箸をつけた。

「・・・味醂が足りない」

 誰に言うでもない、ただの呟き。そして、箸を置いて立ち上がる。

 この後、キンピラゴボウを調理しなおし、今度は味醂を入れすぎてしまうのはお約束というもの。

――6:19

 いつの間に外から戻って来たのか、征がリビングに入ってくる。相変わらずの着流し姿だ。

「外、何かあったか?」

「いや、変わらぬよ」

 征は、自然な動作でテーブルに近付いた。白い器に入ったキンピラゴボウが、湯気を立てている。

 正義は、全く気付いていなかった。

 ついさっきまで、この辺りに痴漢が出ると聞いた征が、かつらと女物のロングコートを身につけて出掛けていた事を。それは、目撃者も作らずに見事撃退した。ただ、正義が知れば、その姿を見れずにさぞ悔しがった事だろう。

――6:23

「起こしに行くか」

「ああ、わしが行って来よう」

「じゃあ、よろしく」

 テーブルの上には、湯気を立てる味噌汁とご飯。彰を起こしに行った征を見送り、正義は再びキンピラゴボウに箸を伸ばした。

「味醂が多い・・・・・・・・」


 一方征は、彰の部屋にいた。いくら外から呼んでも目覚める気配がなかったからだが、それ自体はそう珍しい事でもない。彰は、眠りが深いのだ。

「彰。まだ寝ておるのか?」

 布団にうずくまった小さな体を、その上から軽く揺する。少しして、眼が開いた。だが、どこか虚ろで遠くを見ている。

 征など、目に入っていない。

「行っちゃやだ、兄[あに]さん・・・・」

 まだ十分には成長していない、だが決して大きくなる事のない子供の手が、着物の袂を掴む。しかし、それも一瞬だった。すぐに、視点が定まる。

「・・・ロクダイ?」

「――――起きたか。朝じゃよ」

「うん。ありがとう、起こしに来てくれて」

 無邪気な、明るい笑顔。

 ある、朝の出来事だった。

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