真っ赤に染まった夕暮れの下を、あたしは歩いていた。手入れのされた長い髪に、一目で判る上等の着物。そんな格好で一人で歩き回る危険さは、わかっていた。それでも。

 目的は、特にはない。ただ、少し腹を立てたのだ。兄を、困らせてやりたかった。

 勝った勝ったと浮かれながらも、そこかしこに不安な影がひしめいている。先の見えない危ういそれに、そっと辺りを窺う人もいた。それが決して表に出る事はなかったけれど、叔父はぽつりと、そんな危険を漏らしたりもした。

 だからあたしは、戦争に浮かれるこの先にあるものを、薄々は知っている。露西亜を倒した、その先を。

 それは、兄さんも同じはずなのに。

 なのに。

 ――兄さんは行ってしまう。

 軍人になるのだと言う。行かないでと、いくらあたしが言っても、困ったように笑うだけ。そうやって笑うとき、兄さんは決して意見を変えようとしない。

「あにさんの、馬鹿」

 赤く染まる橋の欄干を見ると、ふわりと、薄色の花弁が舞い降りた。土手に植えられた桜だ。

 いつの間にか人通りは少なく、きっと今頃は兄さんたちが、血相を変えてあたしを捜しているだろうと思った。それでも、動けなかった。

 ――あたしがいなくなったら、死んだら。兄さんは、悲しんでくれるだろうか。ずっと、覚えていてくれるだろうか。

 どこか昏いところから音も無く浮かんだ考えに、はっと我に返った。

 何を考えているんだろう。やめよう。帰ろう。

 そう思って踵を返すと、逆光の中に人影が見えた。誰かが、こちらに向かって歩いて来る。帝都をゆるがした猟奇事件の数々が頭をよぎり、駆け出したかったのに、体が動かなかった。

 ところがその人影は、立ち止まると、明るい声を上げた。

「お嬢さん。こんなところでどうしたんです? 危ないですよ」

「ああ――高科さん」

 見知った書生だった。胸を撫で下ろして、あたしは、にこりとよそ行きの笑みを浮かべた。

「危ないなら、送ってくれるわよね」

「はい、仰せのままに、彰子お嬢様」

 苦笑した高科さんの元に駆け寄り、あたしたちは、橋を離れた。ふと、土手の桜が目に入った。

「綺麗ね。少し、見て行きましょう」

「お嬢さん」

「いいじゃない、少しくらい。どうせ、勝手に出てきて怒られるのだから、少しくらいお説教が延びても構わないわ」

 そんな言動を悔やむのは、少し後のことになる。

 あたしは、彼に殺されて、亡骸を桜の木の根元に埋められた。


 雨が降っていた。

 見事な夕焼けだったというのに、いつの間にか霧雨が、街を包んでいた。あたしは、小さな女の子に手を握られて、どこかへ連れて行かれようとしていた。

「ねえ、どこに行くの? あたし、戻らなくちゃ。捜しているよ、きっと。この頃皆、ぴりぴりしているんだから。ねえ」

「戻れないわよ。・・・わかってるんでしょ」

 あたしよりも、小さな女の子。それなのに、とても大人びていた。兄さんや、もしかすると叔父さんよりも。

「私は、美咲。彰子、よく聞いて」

 どうして名前を知っているんだろうと、思った。

 雨で、桜は散ってしまわないだろうか。

「あなたは強いから、この先も『生きて』いく権利が与えられたの。どうする? このまま死ぬのも、一つの方法よ。こんな生活、いいことばかりじゃないんだから」

 何故か辛そうな美咲の瞳を見ながら、頭から、あの場面が消えなかった。・・・・・・あたしが、死んでいた。ナイフで、刺されて。血で真っ赤だった。優しい、人だったのに。どうして?

 美咲は、話を続けていた。難しいことを沢山言っていたけど、よくはわからなかった。

 でも。

「生きたい」

 一瞬、美咲の顔から表情が消えた。

「生きたい。こんなので終わるなんて、厭よ」

 美咲が言ったように、兄さんたちと暮らすことができなくても。生きたいと、ただ、そう思った。 

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