「そう言えば。ねえ、あなた名前は?」

 契約を終え、紅子は男を見つめた。眠ってしまえば、この体は死ぬ。そうして紅子は、別の少年になる。 今が、紅子としては最後の時間だ。

「これからずっと、一緒にいてくれるんでしょう? 名前を知らなければ不便だし不自然だわ」

「……名はない」

「え?」

 きょとんと、首を傾げる。そうして、それならと手を打った。

「ねえ、それならわたしがつけてもいい? うーん。響、なんてどうかしら。漢字一文字で」 

 あ、と少しだけ焦ったような表情になったのを見て、あ、と紅子も呟いた。

 悪魔にとって、名は大切なものではなかっただろうか。悪魔に限らずだが、とりわけ、今までに紅子が読んだ書物では、名を知られると力を失ったり好きに使役されてしまったりしている。名をつけるのは、名を知るのと同等だ。

 そんなつもりではなかったのだが。

 男の白い顔を見つめて、慌てて打開策を探す。やめた、と言えばそれでなかったことになるだろうか。

「今のなし!」

「…」

「駄目? それなら、えーと。名字は、あなたが自分でつけたらいいのよ。それで、わたしの名前をつけて。そうすれば、おあいこに…ならない?」

「………コウ」

「え?」

「紅に対して、白の意味を持つ皓。気に入らないか」

 それが新しい己の名だと気付くまで、少しかかった。漢字をよく知っていたことが意外だったが、それも何だか嬉しい。

「気に入ったわ。ありがとう」

 もう、紅子でなくなることが恐くはなかった。

 今のこの体を捨てて、新しい姿を手に入れることへの躊躇いが、これでなくなった。いっそ晴れやかな気持ちで、男を見る。

 男は、やはり無表情だった。

「名井とでもしよう」

「ナイ?」

「名に井戸の井。名井響が、お前の側にいる間の俺の名だ」

 微笑みもせずに、淡々と口にする。

 紅子――皓は、何故かそれが嬉しくてたまらなかった。彼は、しっかりと皓に向き合っていてくれている。言葉を、聞いてくれている。紅子の周りには、そんな人は少なかった。

「それなら、名井さんと呼べばいい?」

「響でいい」

 無愛想とも呼べないほどに感情のない調子で、そう告げる。この人――人ではないのだが、彼は、笑うことがあるのだろうかと思った。

「響さん」

「何だ」

「眠るから、手を握っていてくれない? わたしが――わたしでなくなるまで、ここにいて」

「…それは命令か」

 変化のない一本調子の声に、笑みがこぼれる。

「そうね。はじめての命令ということにしてちょうだい。いいかしら?」

「ああ」

 最期のときまで、彼は皓に従ってくれるのだろう。先ほど騙されたばかりなのに、皓はそう確信していた。 

 

 きっと、大丈夫。
 わたしはこのまま、前を向いて歩いていける。
 たとえ進む道が曲がっていると、初めから知っていても。



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