夏見舞

 夏と言えば、この空を思い出す。

 人の手では出せっこない、深い深い澄んだ青と、まぶしいくらいの白の対比。窓の外に広がる、この空が頭に浮かぶ。

 ところが、夏色といえば話は別だ。夏季の中でそれは、くすんだような、それでも鮮やかな蜜柑色・・橙系の色だ。それには、多分に夏蜜柑と『夏色』という歌を歌ったグループの名の影響があると思う。なんて安直な。

「夏なんて、全然キレイじゃないし、暑苦しいだけなのに。どうしてあんなに生き生きとしたイメージがあるのかしら?」

 なんとか熱風を送り出す扇風機を軽く睨み、言う。それは確かに本心の一部だったのだけれど、微笑を浮かべる壱を見て、少し後悔した。

「夏が嫌いなの?」

「ううん。そんな事ないわよ。あたし、四季は平等に好きだもん」

「単にどの季節も完全には好きになれないだけだろ」

「てっちゃん?」

 窓際で黙々と本を読んでいた哲也に、わざとらしい笑みを向ける。哲也は、言うだけ言ってまた本の世界に戻ってしまったらしく、特に反応を示さなかった。それも、たった一年ほどの差しかない従兄妹に敵わない点だ。

「まあ、テツの言う通りだろうね」

「いっちゃんまで」

 なんとなくのけ者にされたようで、悔しい。この二人は、知らないうちに夏季を傷付けるのだ。夏季だけを置いて、肩を並べて歩いて行く。こちらから声をかけない限り夏季が送れている事にも気付かないのだから、余計に腹立たしい。  

 哲也や壱から見れば違う光景が映っている事を、夏季は知らない。

「夏季ちゃん。小学校の修学旅行、楽しかった?」

「え? うん。面白かったわよ。それがどうかした?」

「でも、早起きが辛くて移動中ほとんど寝てたから悔しかったとか、同じ部屋に嫌いな子がいたとか、先生がやたらと口うるさかったとか、文句も言ってたよね?」

「・・・そう、だった?」

 言われてみれば、そんな事を言った気もする。たしか、言った当時は、そのことが本当に嫌だったはずだ。すっかり忘れていた。

「でも、楽しかったんだよね?」

「うん・・」

 再生される印象は、「楽しい」の一言に集約される。今となっては、口うるさかった先生すら、かすかに懐かしい。そういえば、卒業してから会ってないなあ。 

「それと同じだよ」

「え?」

「嫌な事の印象は薄れて、良かった事が強調される。人の記憶の書架は意外に狭いからね。代わりに、地下書庫が凄く広いんだけど」

 楽しそうに、瞳が揺れている。

 夏季が・・夏季と哲也が、壱と始めてあったのはいつだっただろう。確か、夏祭り・・そう、初めて子供だけで行かせてもらった、城山祭だった。三人とも、着慣れない浴衣を窮屈そうに着ていた。

 そうか。夏と言えば縁日、ってのもあったんだわ。

「まあ、実際には嫌な事と良かった事というよりも、印象の差だと思うんだけどね。より大きな印象の方が強調されて、残っていく。時間が経ったら、それ自体への見方も変わるだろうしね。だから、夏季ちゃんが生き生きとしたイメージを持ってるのは、それが暑さなんかよりも印象深いからじゃないかな?」

「夏季は、都合の悪い事は全部水に流すって性格だしなあ」

「うるさいわよ、てっちゃん」

 本から顔も上げずに言う哲也を睨みながら、頭の中をあの空が占領しているのに気付く。印象深いから。あたしにとって、印象深いから、縁日よりも先にあの空が浮かんでくる。なんだか・・・

「記憶を偽造してる気分だわ」

 つい漏らしてしまった言葉に、壱が笑う。

「そんなものだよ。何もかも細かく覚えてたら、新しい物が入る余地がないんだからね。地下書庫は半無限でも、書庫は目に見えて有限なんだから」

「うーん」

 きっと、この論にはまだまだ穴がある。でもそれがどこなのかがわからなかったら、きっと、ないのと同じなのだ。それに、そんな事を考える以前に納得してしまっている自分がいる。

「はい、休憩時間終り。勉強教えてもらうためにここに来てるんだろ。早くやらないと日が暮れるぞ」

 読みかけの英語のペーパーバックから顔を上げ、お茶を飲む。

 昔から語学関係だけは習得が早いのよね、てっちゃんって。絶対、アマゾンだかアフリカだかの原住民とも会話ができるようになるわ。ひょっとして、未解読の古代文字も読めるんじゃないの?  

 呆れつつ、羨望しつつ、英語のテキストに向かう。理解はできても人に教える事はできない哲也はあてにならないから、だから壱に勉強を教わりに来たのだ。

 そのうち、この状況も懐かしい思い出にできるのかしら?

 窓の外には相変わらずの青空が広がっていて、扇風機は生ぬるい湿った風を作り出す。夕暮れには、まだ時間がありそうだった。



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