記憶の底

 祖父の死が知らされたのは、何の変哲もない夏の昼下がりだった。

「――うん。すぐ戻る」

 案外淡々と、短い電話を済ませる。居間に戻ると、勉強に飽きたのか、夏季は即座に振りかえった。その向こうでは、勉強を教えろとせがまれていた友人が、穏やかな微笑を浮かべていた。

「おじさん、なんだって?」

「爺さんが死んだ」

「―――――え」

 言葉を失う従兄妹に、哲也はゆるく首を振って見せた。考えてみれば、夏季とは従兄妹だから、同じ祖父がいるのだ。明らかに言葉が足りなかったが、時々やることなので、動転しているのかどうかはわからなかった。

「父方の爺さんだ。これから通夜や葬式があるから、しばらく家を空ける。夏季、適当に空気を通しといてくれないか。冷蔵庫のも、悪くなりそうだったら食べといてくれ」

「う、うん・・・」

「じゃあ」

 持ってきていたのは英語のペーパーバックだけだったので、哲也はそれを片手に、いつものように悠然と友人宅を後にした。

 家を出ると、予想に違わず暑い日差しが照りつけてきた。夏季が、「皮膚癌になるから日焼け止め塗っときなさい!」と事あるごとに怒鳴りつけていたのを思い出す。それだけだった。

 ただ、まぶしさに目が慣れるのを待つ間に、哲也は夏の予定が一つ、意外な形で消化されることになったのかと、奇妙な感想を得た。――今年の夏は、祖父の家に行くつもりだった。



 葬式は、淡々と一生を生き、終えた祖父の人柄を反映するかのように、淡々と進行していった。

 哲也は、これで三度目になる肉親の葬儀を、ただぼんやりとやり過ごしていた。一度目は母、二度目は祖母だった。

 参列者はぽつりぽつりと姿を現したが、そのほとんどが高齢者だった。遠方で暮らしており、高齢のため、淋しそうに電話口で参列を断ったものや、すっかりボケてしまい、家族や老人ホームの職員から断られたものもあった。

 哲也の知らなかった祖父は、どんな人だったのだろう。

 父が祖母――父にとっては、母になるわけだが――と冷戦状態にあったため、ほとんど行き来はなかった。それは、祖母がこの世を去ってからも尾を引き摺り、考えてみれば一歳という記憶も残らない頃と、祖母の葬儀、それと、何故かは忘れたが小学生の頃に一度、会ったきりだった。

 どうにも、ぴんとこないというのが実情だ。

 良くも悪くも強烈な個性を放っていた祖母に対して、祖父の印象は驚くほど薄い。実質二度しか会っていない人であれば、それも仕方がないのかもしれないが。

 式の間中、暑さを避けるべく、冷房機は頑張って稼動させられていた。祖父は冷房が嫌いだったらしいから、初めての大活躍なのかもしれない。

 祖父母の子供は父だけなので、残された土地やわずかながらもある貯蓄は、全て父が受け継ぐ権利を持つらしい。あまりに突然で呆気なかったから、俺にはやらんっていう遺言書を書き忘れたのかもしれんなと、父が笑えない冗談を口にしていた。父なりに、親不孝を責めたかったのかもしれなかった。

「おい、これからどうする」

 葬儀の翌日、昨日の臨時国会を映し出すニュースを見ながら朝食を摂っていた哲也に、起き抜けの父は言った。

 数秒遅れて、哲也は、ああ、と声を出した。

「今日、何日だっけ?」

「十三日だな。お前、バイトとかあるだろう」

「うん。・・・いや、十七まで入れてないから、そっちは大丈夫。ここは、すぐ引き払う?」

 椅子を引いた父の皿に焼いたパンを乗せて、コップにオレンジジュースを注ぐ。父は、礼を言うとジュースを一気に飲み干した。

「まさかすぐには。遺品の整理もあるしな。もうしばらく残るのか?」

「いい?」

「好きにしろ。・・・案外、その方が喜ぶかもしれないな」

 それきり、二人は食事に専念するかのように黙り込んだ。テレビの音とセミの声だけがする。元々、全くないわけではないものの、そう会話の弾む家族でもなかった。

「私は、一旦帰るよ。仕事も無理を言ってきたからな」

「うん。俺も、十六日の昼くらいには帰る。それまで、夏季のところででも飯食っててくれよ」

「・・・そんなに生活能力がないように見えるか?」

「見えるんじゃなくて、実際ないよ、父さんは」

 二人は、どちらからともなく微苦笑したのだった。



 バイトで休みを取ったのは、祖父の家に行くつもりだったからだった。そういう意味では、本来の目的通りに使われたということになる。

 七月の末に届いた暑中見舞いは、例年通り流麗な達筆で書かれ、そして例年にはなく、「是非一度、遊びに来なさい」と書き添えられていた。その気になったのは、何故だったかよく覚えていない。しかし、即座に連絡をすると、実直そうな祖父の声は、わずかに嬉しそうだった。

 哲也は、ぼんやりとアルバムをめくっていた。

 写真が好きだったのか、本棚から大量のアルバムが出てきた。すっかり変色した古いものから、先日の日付の見られるものまで。

 その中で人々は、ゆっくりと、あるいは急激に、年を重ねていっていた。祖父の字で「哲也 ○歳」と書かれた写真が所々にまぎれているのに驚く。そういえば、母が生きていた頃は毎年写真を撮っていた気がする、と思い出した。送っていたのか。

 写真の中で、祖父は軍服を着ていた。

 酷く異質な物を見た気がして、哲也は思わず手を止めた。

 そして、思い出す。幼年時に見た光景を。

 ――祖父は、祈るような、悔いるような、「怖い」とさえ言える表情で、きつく目を閉じていたのだった。

 たまたまそれを目にした哲也は、声をかけることもできずただ、呆然とそれを見ていた。

 今にして思えば、黙祷だったのだ。それは、数十年前に帝国主義の日本が断末魔をあげた日だったのだから。

「・・・ああ」

 ふと、呟く。開け放たれた窓からは、あまりに元気な蝉の鳴き声が聞こえていた。だらだらとつけたままにしているラジオからは、どこかで聴いたことのある、穏やかな曲。

 大学の教養でとった、世界史の講義。契機は、おそらくはそれだ。

 話を聞こうと、そう思ったのではないはずだ。そう思ったならば、哲也は、当時を詳しく知るための勉強をして、それから祖父に会おうとした。しかし哲也は、そんな対策はしていない。

 哲也にとって、数十年前の日本は、ただ、現在があるのだからあったに違いないはずの、過去に過ぎない。例えその一部が途切れていたところで、実質的な問題はないはずの、そんなもの。知識は乏しく、実感は欠片ほどもない。

 しかしそれを、祖父達は生きていたのだ。

 今の時間が、おそらくはいつか生まれて育つ誰かが、知らずに過ごすように。

 ぴんぽーん

「・・・ッ、はい!」

 間延びした、素っ頓狂な音に驚き、間を置いてそれが何かに気付いて、哲也は慌てて玄関に声を向けた。なるべく丁寧にアルバムを膝から下ろして、廊下に出て突き当たりに急ぐ。

 鍵をかけていない玄関には、高校か中学のものだろう、夏のセーラー服を着た少女が立っていた。

「え・・・と・・・?」

「あれ?」

 お互いに、顔を見合わせて驚いたかおをする。

 美人ではないが、きれいな子だと、哲也は思った。夏季にも言えることだが、とても活き活きとしていて、それがきれいに見える。

 いや問題はそれではなくてと、そっと自分に突っ込みを入れる。

「どちら様でしょうか?」

「あの、おじいちゃんは? ああ、あなたがお孫さん? 息子さんの方じゃないですよね、いくらなんでも」

「・・・祖父とお知り合いで?」 

「はい。あ、ごめんなさい、私だけ一方的に。ええと、夏木姫野って言います。おじいちゃんとは、高校の地域実習で知り合ったんです。久々に学校に来たから、お土産を渡しに来たんです。おじいちゃん、いますか?」

「――」

 元気な少女が、名字とはいえ夏季と同じ名前で驚いた。

 そしてそれよりも、どうやら祖父と仲が良かったらしいこの少女が、まだその死を知らないことが、鈍い重みをもたらした。友人や知人には全て連絡したつもりでいたが、まさか、こんな年少の友人がいるとは思ってもみなかった。

 お土産と言うからには、旅行にでも出かけていたのだろう。

「祖父は――、昨日、葬式を」

「お葬式? 出かけて、って、昨日――」

 言葉に出しての自問自答の途中で気付いたのか、動きが止まり、表情が固まる。コマ落としの映像を見ているようで、奇妙な感じがする。

「・・・亡くなられたんですか・・・?」

「ああ。急だったけど、多分苦しまなかっただろうって」

「お線香――上げさせてもらって、いいですか」



「麦茶でいい?」

「あ、お、お構いなく」

「冷蔵庫、片付けないといけないから。飲んでもらえると助かる」

 からんと、氷の音を立てて、夏木の前にコップを置く。やけに可愛らしいクマが描かれたそれは、手前にあったから適当に引っぱり出しただけだった。

 それを見て、一瞬、少女の表情が緩んで、そのまま、泣きそうに顔を歪めて俯いてしまう。

 哲也は、そっと目を逸らして、少女の向こう側にある窓ガラス越しの風景を見遣る。祖父が日々眺めていただろう、景色が映る。

「――ごめんなさい」

「何が?」

「私より、あなたの方が」

「どう感じるかなんて、それぞれだ。比較するものじゃない」

 言ってから、無愛想だったかと軽く後悔する。それでも、口にした言葉は取り消せない。

 窓の外は賑やかで、耳に痛いほどに蝉の声が聞こえる。きっと、暑いだろう。しおれた草木から、湯気が上がっているような気がしてしまう。

 夏木は、しばらく黙っていたかと思うと、グラスを持ち上げて、一息に飲み干した。直接見てはいなかった哲也だが、音から、そうと察する。

「あなたの方が、時間を共有するべきだった。私じゃなくて、あなたが」

 訝しげに目線を戻すと、少女は、真っ直ぐに見つめ返した。端に、涙がにじむ。

 それが一層、生を感じさせた。

「おじいちゃんと話をしていたら、本当にしょっちゅう、あなたや、あなたのお父さんの話を聞きました。嬉しそうで誇らしそうで、だけど、哀しそうで。連絡だってろくにないけど、守れた数少ないものだって、言ってました」

 季節の便りだけ、律儀に送ってくる人だと思っていた。

 影の薄い、利益も不利益ももたらさない人。

 血が繋がっていると言われても、実感などほとんどなくて。

「戦争で、沢山のものを喪って、喪わせて、だけど、守れたって、守れて良かったって言えるものだって。それは私じゃなくて、あなたがきくべきだったんです。だから――ごめんなさい」 

 少女は、そう言って頭を下げた。肩に掛かるくらいの髪が流れて、陽に灼けていないうなじが見える。それが、眩しくて痛々しかった。

 蝉の音が、遠離る。

 この場所で、祖父と少女は何を語ったのだろう。全くの他人の二人が、ここで、何を感じたのだろう。

 それを知る権利は、哲也ではなく夏木で、謝られるいわれはない。ただ、羨ましくは感じた。哲也は、そんな時間をむざむざと放棄してしまっていたのだ。選ばないことで、選択していた。

 グラスを動かすと、からんと、氷がなった。少し溶けて、角が取れている。

「ありがとう」

 祖父が暮らした、見ただろう風景の中で、哲也は、知りもしないのに、わかったような気がした。

「今年、祖父からの暑中見舞いに、遊びに来ないかって一言添えてあった。あれは、夏木さんのおかげだったんだな」

「・・・私?」

「ああ」

 父も、祖父を嫌っていたわけではなかった。何かと反対された祖母でさえ、嫌いではなかっただろう。ただ少し臆病で、決定的に傷付くのが厭だったのだ。

 祖父も、同じだったのではないだろうか。その背を、話を聞いてくれた夏木が押してくれたのだと、何故か確信する。

「良ければ、祖父の話を聞かせてくれないか。何も知らないんだ。さっきアルバムを見たら、俺の写真が貼ってあって驚いた」

「でも、私」

「すぐじゃなくてもいい。明日はまだここにいるし、多分、またそのうちに来るから。迷惑なら、無理にとは言わない」

 鳴いていた蝉が、休憩を決め込んだのか、一匹、ぱたりと鳴き止んだ。

「――はい」

 少女が肯くと、それを追うように、蝉の声が鳴り響いた。

 まだ暑く、夏がどこまでも続きそうな、そんな時間が流れていた。


 それは、祖父の残した置き土産だったかもしれない。



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