枯れ葉の望み

「おはよう」

「・・・・おはよ」

 まだ他には誰も来ていない教室で、夏季はぼうっとしたあいさつを返した。明日にでもなれば、この時間帯でも何人かは来ているだろう。受験直前ということもあって早朝に勉強をしている者がいるし、熱心な先生による補習も行われる。

 だが、今日は三学期の始業日。補習はなく、休み気分を引き摺っているのか、早くに来る生徒は少ない。

 夏季は、貧弱な学校の机に、伸ばした腕を置いてその上で顔を横向にしている。その顔は、机三筋分隔てた、中庭側の窓に向いていた。

「何やってるの」

 夏季が見ているものが見えるように移動しても、どこまでも続くようなどんよりとした曇り空しか見えないことに頭をかしげ、弓鶴[ゆづる]は声をかけた。うぅーん、と、寝ぼけているかのような声が返る。

「空と、枯れ葉」

「はぁ?」

「あそこ。校舎の向こうの、ゴーテーの庭。一本だけ、木があるでしょ。葉っぱが落ちちゃって寒そうなやつ」

「ええ?」

 あまり視力の良くない弓鶴は、一度自分の席に戻ってからメガネケースを手に、夏季の元に戻ってきた。

 夏季の言う「豪邸」はちょっとした小山の上に一軒だけ立っており、校舎と同じ位の高さにあるのか、遠くではあるが、はっきりと見える。この高校では有名な一軒家だった。

「よく見えるね、あんなの。で、あれがどうしたの?」

「ん。枝が空に向かってるみたいでさ。空なんて、ただの空気の層なんだから何にもないんだけど、でもそれ目指してるみたいでさあ。行けっこないし、行っても何もないのに。って思って」

 腕にほっぺたをくっつけて、どこか気の抜けたようになっている夏季は、その口調もいつものような覇気がなかった。先生が呑まれてしまうほどに勢いのある話し方の夏季に慣れている身としては、違和感をぬぐえない。

「・・・・疲れてる?」

「ちょっとねー。なんかこのごろ、焦っちゃってさ。それでも気分切り替えて学校行こうと思ったのに、こんな見事な曇天だし」

 いっそ雪でも降れば気が晴れるのに。

 滅多に雪が降らない地方だからこそ、そう思う。雪が降れば、あの枯葉はどうなるだろうか。

「学校、早く来すぎちゃって。ぼーっとしてたら、あの木が見えたの。こうやって見てると、『枯葉の望み』とでもつけたくなるような構図だなって思ってさ。あとあれ。O・ヘンリー」

「最後の一葉?」

「そう。あたし未だにそれ、ヒトハなのかイチヨウなのか判らないんだけど」

 てっちゃんかいっちゃんに訊けば判るだろうのに、いつも忘れてるなあ。年上の友人たちのことを思い浮かべながら、やはり夏季はぼんやりしていた。

「いちようじゃないの?」

「でも、ヒトハって誰か言ってた」

 葉が落ちて、まるでやせ細ったように見える枝だけの木に、枯れ葉が一枚。根性だけで残っているような気すらしてくる。まるで、儚い望みに縋るように。

 見れば見るほど、額でも嵌めておいておきたいような、絵の構図に思えてくる。水彩画よりは油絵で、ごてごてと飾り付けて、尚且つ陰鬱に。

 ――ああ、なんだ。

「なんだ、そっか」

「何?」

 唐突に呟いた夏季に、弓鶴が怪訝そうなかおを向ける。夏季は、ようやく体を起こすと、今度は頬杖をついた。

「どうして気になるのかわかった。ハマリ過ぎてたのよ、今の状況に。伸びたって届かないのに、もう枝を離れるしかないのに、ってところが」

「・・・相当、疲れてるね」

「うん。でも、自覚できたから」

 自覚のあるなしは違う。自覚してしまえば、しないよりも大変な場合が多い。だが、自覚すれば正面から向かうことができる。その方が、打開策だって見える。

 無自覚な据わりの悪さは、もうたくさんだ。

 近くの椅子に座った弓鶴が、快復したらしい夏季を見て、小さく溜息をついた。この強さが、うらやましい。

「夏季は、ちゃんと目標あるもんね。あたしなんて、ないままなんとなくでここまで来てるもん。張り合いないよ」

「それはそれでいいじゃない。自分に見合ったところを選ぶのも手よ。限界まで挑戦してよりパワーアップ、なんて言うけど、実は限界なんて見なくて済むのが上手なやり方なのよ。勿論これは、楽なのばかり選ぶのとは違った次元でのことだけど」

 調子が戻ってきたな、と、弓鶴は苦笑した。やはり夏季はこうでなければ。うらやましくは思うが、ねたましくはない。夏季にこの強さがないのは、自分が強くない以上に厭だ。勝手ではあるが。

「それが判らないから困るんだってば。逃げてるのか、ちょうどいいところにいるのか。どうやったら見分けられるの?」

「知らないわよ。自分で規準作って判断するしかないでしょ」

「あ、冷たい」

「冷たくない。物事の判断基準を人に任せるようになったら終わりよ? 自分の判断ができない人は、他人のことにまで自分の意見を押し付ける人と同じくらいみっともないわ」

「また難しい話してるの?」

「おはよー、久しぶりー」

 一人二人と教室に入ってくると、続けてクラスメイトが入ってくる。まるで信号でも発しているかのように、生徒の登校が重なるのはなぜだろう。バスや電車通学の生徒だけならともかく、自転車通学の生徒もそれに連なるのが不思議だ。

「おはよう」

 夏季と弓鶴は、久しぶりに会う友人たちに明るい声を返した。

 窓の外には、一面の曇り空と、それに向かって伸びているかの様な木が一本。その木には一枚だけ、枯れ葉が残っている。けれどそれは、遠い。  



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