風に飛んできた布を、烈[レツ]は拾い上げた。幾度か水にさらした跡のある、髪を結い上げるための布だった。
「ありがとうございます!」
布を追って走ってきたのか、息を弾ませながら、十歳ほどの童女が笑顔で言った。そして一瞬置いて、にっこりと笑う。
「お兄ちゃん」
「また飛ばしてたのか、夕[ユウ]。気をつけないと無くすぞ?」
「無くさないよ。それに、無くしてもお兄ちゃんが見つけてくれるでしょ?」
「まあな」
笑顔で、烈は夕の頭を撫でた。夕も、嬉しそうに抱き付いている。
八つ年の離れた夕は、烈のかけがえのない妹だった。母親は違うのだが、二人は揃って、その母を亡くしていた。夕の母が亡くなったのは二年前、夕が七つで烈が十二のときだった。
烈にとっては、夕とその母だけが「家族」だ。烈が五歳のときに毒を飲んで死んだ実母には、哀れで、愚かな人だという、凍えた印象しかない。
「夕、沓[くつ]、どうした?」
はじめは気付かなかったが、夕は素足だった。それも、建物の中ではなく、土庭から走って来ていた。
烈に言われて、夕は咄嗟に着物の端を押さえた。宮中で暮らすにしては質素な着物の裾が、土で汚れている。そして烈は、着物を押さえた一瞬、夕が顔をしかめるのを見逃さなかった。
「誰にやられた?」
「違うよ、お兄ちゃん、違う。ちょっと転んじゃって」
「夕」
困ったように笑う夕を、問い詰めることはできなかった。恐らく兄や姉たちの誰かなのだろうが、夕がその名を言うことはない。
母親の身分が低く、後ろ盾もないこと。それだけで、夕は軽んじられ、こんな目にまで遭う。烈自身、後ろ盾はあまりないのだが、貴族連中の息子に何人か親しい者がいることと、何かやられたら確実に仕返すために、すぐにそういった対象からは外れた。
夕は、宮中で生き抜くには優しすぎる気がする。
「夕、俺・・・・」
「こんなところに逃げ込んでたのか」
「まったく、野猿みたいにすばしっこい。これだから卑賎の輩は・・・」
横柄に歩いてきた二十歳前後の男たちは、烈の姿を認め、言葉を止めた。そしてその顔に、醜い笑みが浮かぶ。
「下等同士で、群れてるのか?」
「おい、何か言ったらどうだ?」
吊り目の男が、そう言って烈を殴りつける。夕が、その背後で身を縮めた。薄笑いを浮かべた男たちは、だが、憎々しげに烈を睨み付けた。
「その眼をやめろ! 見下されるのはおまえの方だ!」
「わからせてやる!」
再び殴りかかってくる男を、烈は冷静に見ていた。二人とも、半分は血の繋がった兄だ。二人で一組という印象が強い。
「お兄ちゃん!」
夕が叫ぶ。
その声のすぐ後に、烈は、今度は向かってくる拳をあっさりと受け止めた。男の顔が、醜く歪むのをはっきりと見ていた。
「いくら身分とかが高くても、中身が無かったら意味がないんじゃないか? せっかくもらった領土を治めきれずに帰って来たりしたら、見下されるぜ」
言葉を飾る必要も感じなかった。この二人は、幸いなことに――といっていいものかは判らないが、評判は悪かった。
「夕、行こう」
「待て!」
「お前、お前・・・・!」
怒りにたぎった声に、烈は冷たい一瞥を投げかけた。それだけで、二人の口が閉ざされる。十四の子供に、男二人が威圧された瞬間だった。
* * *
「夕、ごめんな。怖かったか?」
しがみついて離れない夕をどうにか抱きかかえて、烈は高台に上った。風が気持ちいい。
「なあ、夕。多分、あと一、二年で俺も、どこか適当なところに行くと思う」
夕が、烈を見る。怯えるような、泣き出しそうな眼をしている。烈は夕を下ろして、その目の高さに合わせてしゃがみ込んた。
「だからさ、一緒にこないか?」
多分、いろいろと問題にはなるだろう。許可も、下りないかもしれない。それでも烈は、連れて行きたいと思った。いずれはどこかに嫁ぐにしても、ここからよりはずっといいと思う。外に出れば、知り合いも増える。こんな、狭い世界だけではなくて。
ただ一人の家族のためなら、何だってするつもりだった。
「どうする?」
「行く!」
元気よく言って照れくさそうに笑う少女に、烈は笑顔を返した。
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