例によって順調に、食事の準備は進んでいた。
戒と陸が手際よく具材を刻み、鍋に放り込む。空はいつも通りに探索に出ており、変わったことといえば、幸がおっかなびっくりといった体[てい]で調理に「参戦」していることだ。
「えーっと・・ねえ、これ? これ入れちゃっていいの?」
「ああ、それ。戒、次干飯[ほしいい]調達しねーとそろそろ・・・おい、それ少なすぎ」
「そう?」
「馬鹿、多い」
「ええっ?」
国境を超えてしばらくしたあたりから調理に手を出し始めた幸だが、どうにも手際が悪い。つまりはまったく役に立っていないのだが、楽しそうなので邪魔とも言えずにいるのが実態らしい。役に立っていないだけで実害もないからでもあるだろう。
食料の無駄遣いでもしようものなら、意外にもの(道具・食材構わず)を大事にしている陸に「頼むから手伝うな」と言われるのは目に見えている。
そして、その結果どうなるかというのは、戒によるだろう。
戻は、湯気を上げる鍋をぼんやりと眺めていた。
『見ててごらん、鍋には他の使い方もあるんだよ』
にこにこと笑う、年齢以上に幼く見える父――養父――の声を思い出す。
彼は、炊事場の丸鍋に水を入れてにっこりと笑った。
『ほら、雲ができた』
水蒸気が立ち込めて、たちまち炊事場は白く曇った。幼い戻は、暖かい水蒸気に包まれ、父のいるだろう方向に向かって無邪気に歓声を上げた。凄い、こんなの知らなかった、と。
それは単に、乾燥した室内で急激に、術で強めた炎で水を温めたせいなのだが、そのときの戻にはそんなことはわからない。まだ、術の基礎も習っていなかったような、ようやく物心がつきだした時分のことだ。
『凄いだろう? でもこれは、どの鍋でもできるわけじゃなくて、これが魔法の鍋だからなんだよ。戻、この鍋を使ってみたくないかい?』
・・・・要するに、彼は戻に炊事をさせようとしたのだった。
父に関して、このテの思い出は腐るほどある。草の根元には蟻の国に人が行ける特別な入口があるとか、家中の煤[すす]を集めて埋めると、いつか宝になるとか。
嘘と分かるまで時間のかかるものが多く、幼かった戻はよくだまされていた。おかげで、随分と人を疑うことを覚えた、気がする。父が身に付けさせようとしていた家事能力はあまりつかず、父の方が手際が良かったが。
「そろそろいいか?」
陸が蓋をあけると、蒸気が上がる。一瞬、本当に雲が降りてきたように見えた。その光景に、夢想とも呼べる回想と現実が重なる。
この鍋は、戒が持っていくと言って譲らなかったものだ。邪魔になるだろうと言う戻に、いえ、必要ですからと言い切った。鍋と包丁(実際には、これはナイフで妥協している)は料理人の必須道具です、とさわやかに言った戒に、突っ込むべきだったのだろうか。
「・・・・遅いな、空」
「そうですね。いつもなら出来上がりと同時に戻ってくるんですけどね」
完成した料理を前に、陸と戒が首を傾げた。次の瞬間。
「ゎ――っ」
四人が、瞬時に戦闘体制に入り、どうも空らしい声のする方向を見据えた。鍋だけが、くつくつと呑気に煮えている。
「食べられるのはやだよーっ」
・・・・・・はい?
四人は、訝しげに互いの目を見やった。食べられる?という疑問に応じるかのように、それらは姿を現した。
四人が目にしたのは、巨大な蓋付き鍋に追いかけられる空だった。
* * *
「・・・俺、目がおかしくなったと思った」
「・・・空があの大鍋で煮られるところ、想像しちゃったわ」
陸と幸は食事の器を抱え、力が抜けたようにして、何故か声をひそめるように言い合った。どこか遠くで、鳥の鳴き声が聞こえる。
あの直後、大鍋は木に直撃して止まった。その衝撃で葉やまだ青い実、虫などが落ちてきたが、幸い、素早くふたをしたために料理の鍋には入らなかった。
むしろ、ここまで来られたほうが不思議なくらいだったのだ。それほどに、鍋は大きかった。しかしそれも、木にぶつかった途端に、蛇に似た――小竜に変化した。
そして今、空は無事に食事にありつけたことを喜ぶかのように、焚火の前で多大な食欲を発揮している。まるで何日かろくに食べていないかのようだが、空は朝にも軽く二人前は平らげている。
その隣には、申し訳なさそうに縮こまって座る少年がいた。年齢は十幾つかというところだが、髪は老人のように白い。灰色の瞳は、困ったように伏せられたまぶたと、長いまつげにさえぎられてあまり見えなかった。
「竜が心配ですか? 大丈夫ですよ、戻さんが診ていますから」
戒に声をかけられ、はっとしたように顔を上げる。だが、すぐにまた伏せてしまう。戒は、少年に気付かれないように溜息をついた。
少年は空と大鍋――小竜を追いかけてやってきた。しかし、一言も口を利かず、ただ目を伏せて黙りこくっている。焚火のそばにいるのも、空が半ば強引に座らせたからでしかない。
「おい、どうにかならないか。目が覚めた途端に暴れ出した」
尾を捕まれ、宙に浮いたまま必死に戻の手から逃れようとする竜を見て、少年は駆け出し、数歩踏み出したところで見事にこける。焚火に向かって走ったにもかかわらず、何故か右足を軸に一回転して、運良く何もない地面に倒れこむ。
――とろい・・・・。
食事に夢中の空を除き、その場にいた全員の感想だっただろう。
「・・・大丈夫ですか?」
そっと戒が覗き込むと、少年は、強く打った鼻の頭を赤くし、草汁にあちこちを染めながら顔を上げたところだった。泣きかけてこらえたように、灰色の瞳が潤んでいる。
顔をぬぐうこともせずに、少年は立ち上がって再び駆け出そうとして――一歩目でつまづき、今度は戒に抱きとめられて転ばずにすんだ。それなのに、戒の手を逃れるようにして竜のところに行こうとする。
「少し、落ち着いた方がいいですよ。僕たちは君にもあの竜にも、危害を加えるつもりはありませんから」
「お父さん!」
「・・・・は?」
思わず全員が戻を見るが、そうなれば幼児期にできた子供ということになり、まず不可能だ。戻は少しばかり眉をひそめ、少年の元へ飛ぼうとするようにもがく竜を見た。
通常の青大将といった大きさの竜は、絵巻に描かれているように立派な角とたてがみ、ひげなどがあり、迫力があると言えなくもないが、あくまで置物としての話だ。小さすぎる。
「――これか?」
目線の高さまで指を上げたときに、竜はひときわ激しく暴れて戻の手(指)から逃れ、浮遊したまま少年の元へ駆けつけた。両手を伸ばして、少年がそれを迎える。
もしかしたらそれは、少年の言葉通り親子の対面であり、感動的なことだったのかもしれないが、傍目には「飼い主とペットの再会」だった。
* * *
空には、まぶしいほどに白い、巨大な雲が浮かんでいる。あれほどうっそうとしていた森はそれほども行かずに終わり、今、一行は細い川に沿って草原を歩いていた。地図によれば、この川沿いに行けば集落があるはずだった。
「あんなこともあるのねえ」
見るものもないような開けたところで、珍しく黙々と歩いていた幸がぽつりと呟く。男三人は先に行っていて、聞こえた様子はなかった。
「あんなことって?」
「妖が、人を育てるなんて。・・・考えてもみなかったってわけじゃないけど、でもやっぱり・・・」
昼に出会った少年と竜は、子を育てる保護者の男性を「父」として、育てられる被保護者の男の子を「息子」とするならば、間違いなく父と息子の「親子」だった。もっとも、竜の方もまだ大人とは言えない年齢――それでも、人の一般的な寿命は超えている――らしいが。
「でもあたし、ヨウジンだけどヨウジンに育てられたわけじゃないよ?」
人と妖の違いどころか動物との区別もしていないような空が不思議そうに首をかしげる。幸は、思わず微笑していた。
「それもそうね。そういえば、空。どうして食べられるなんて言ってたの? 大体あの竜、どうして鍋なんかになったのかしら?」
言葉少なに勘違い――危害を加える者だと早とちりしたらしい――を詫びて、二人は森の奥に消えていった。そのときには竜が青年の姿に人化していて、かろうじて「若い父と子」として見える光景だった。
「あの子の前で鍋がパクパクしてて、食べるみたいに見えたから飛び出したら大きくなって。絶対、煮て食べられちゃうと思った」
「ぱくぱく?」
「うん。こう斜めになっててね、ふたがこうやって・・・」
両手を蝶番[ちょうつがい]のようにして再現して見せる。その様子は、外見から推測する年齢よりもずっと幼く見えた。
つまりは両方が勘違いしてたのね、と、幸はどこか呆れたように思って、空の頭を軽くなでた。そうすると、空は猫のようにうっとりと目を細める。
きっとあの親子は、遊んでいたか何かだったのだろう。
「空」
短く呼びかけると、空が真っ直ぐな目を向けてくる。戻は、心持ちいつもより柔らかい笑みを浮かべていた。
「鍋には料理だけじゃなくて、他にもできることがあるんだ。鍋を使って――」
空には、大きな雲が浮かんでいた。
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