「どうだ。そろそろ戻ってもいい頃だろう」
「その言われ方では、まるで、私が官職に就くことを望んでいるようですね」
やんわりと返すと、初老も近い男は、困惑気味に眉をひそめた。
「違うのか?」
「あんなに無駄に人の多いところ、できるなら二度と戻りたくはありませんね」
「・・・しかし、人付き合いは良かった・・・だろう?」
あまりに非の打ち所のない笑顔に、男は、いささか自信なげに言葉を返す。しかし笑顔は崩れることがなく、いよいよ落ち着かない。
実際、人付き合いは良かった。
良すぎて、知らない間に叛乱を企てた一味にされていたほどだ。義理堅い同輩が、自らの地位をなげうって弁護してくれなければ、今頃は死刑台の露と消えていたことだろう。
「あそこばかりが世界ではありませんよ、花も木々もきれいで、書も面白い。こうやって訪ねてくださる方もいる。何の不満がありましょう」
――びくともしない笑顔に降参して、男が山を下るまで、そう長くはかからなかった。
「義兄さんも、めげない人だ」
知らずに呟いて、紀武、字は東野は、苦笑した。定期的にやってきて、しかも、くるたびに書物を持ってきてくれる点でも、実に律儀だ。
人が滅多に踏み入らない地なだけに、ありがたい。そして、印刷技術の発展にも喜ぶ日々だ。
「おい、東野」
「おや。まだしぶとく現世にしがみついていましたか」
「・・・やらねぇぞ、酒」
「どうせいつも、ほとんど一人で飲んでいるでしょう」
ふらりと、義兄と入れ替わりのようにやってきた昔馴染みに一瞬だけ目線を向けて、東野は書物に目を向けた。
昔馴染みは、そんな東野の態度に口を尖らせながらも、空いているところにどっかりと腰を下ろした。
「そこのところで、お前の義兄さんに会ったぞ。まだ諦めてなかったのか、あの人は」
「そう言うあなたこそ、仕事はどうしたんですか」
「一区切りついたから休みに来たんだろ。ほら、杯を出せ」
「はいはい」
杯を取りに立ち上がって、一緒に、手短かに食事を用意する。少し早いが、どうせこのまま飲み続けることになるのだろうから、今のうちに出しておかないと食べ損ねてしまう。
汁物を煮立てながら、どこか嬉しそうに、東野は溜息をついた。
祭沈、字を季道とする男は、武挙をほぼ一番で通った、なかなかに有能な武人だった。いつかは大司馬にもなろうと目されているが、今のところは、いささか分が悪い。
それというのも、千年の内乱の折りに、宰相に逆らって同僚の文官を庇ったためだった。しかし、それで出世の道が絶たれていないのは、実力と家柄に依るものだろう。
「しかしまめだなあ、あの人も」
「善い人ですからね。私を見切ったことを、申し訳なく思っていらっしゃるのでしょう」
「律儀なこった。俺には到底真似できんな」
「そりゃあ。あなたは、一度見切った者に情けなんてかけませんから」
逆を言えば、見切らなければ、何かと手を貸す。そして祭李道という男は、体面で人を見切ることの少ない男だった。
東野にかかった叛乱の疑いなど、鼻で笑ったものだった。
『どうせ、人集めで知らぬ間に仲間にされていたんだろう。待ってろ、なんとかしてやる』
『何とかと言っても――』
『なァに、俺には色々と後ろ盾ってもんがあるんだ。玉麗だって、無罪の朋友を見捨てたんじゃあ、愛想つかして出て行くってもんだ』
そうして、獄を去っていった李道は、実際、「何とか」してしまった。
当然感謝をしているし、言葉では言い尽くせないほどの恩義も感じているのだが、呆れも憶えたものだった。
「ちょっと来ないうちに、腕が上がったな」
「そうですか?」
食事というよりも酒の肴と化している煮物をつつきながら、東野は首を傾げた。
「ああ、そうさ。はじめのころは、食えたもんじゃなかった」
上機嫌で、自ら杯に酒を注ぐ。
始めから互いに手酌だったが、李道は休む間もなく飲んでいる。気病みを酒で紛らわす性質ではないが、それでも、東野が何かあったかと思うほどの調子だ。
「子供ができたんですか?」
「全く、お前は全部お見通しだな。二月ほどもしたら生まれるらしい」
本心から喜んでいるらしく、酒に赤い顔が、にこにこと丸くなる。
当ててしまった東野は、呆れて李道を見遣る。
「こんなところに来ていていいんですか」
「こんなところに住んでるのが悪い」
しらっと流されて、東野は肩をすくめた。
こうやって隠遁を決め込んだというのに、何かと世間が侵入してくる。向いていないのかと、そう思うこともある。
「仙人を決め込むには人望がありすぎるのさ、お前は」
心中を透かし見られたような李道の言葉に、東野は無言で杯を呷った。
紀武が復職するのは、それから二月ばかり後のことになる。
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