生贄の沼

 その村には、二十歳以上の女は一人しかいなかった。もう百に届こうかという、老婆だ。他は皆、死ぬか竜神に奉げられた。

 七十年以上も前もことだったと、その老婆は言う。山の上の沼から竜神がやってきて、これから先、二十歳になる女を差し出せと言って去ったのだと。今二十一以上の者は見逃してやると言い、逆らえば皆殺しにすると。

 一度は抗った。だがその代償は、多くの死亡者と長いひでりだった。

 以後、村人は竜神に従った。そして、娘たちは二十歳までに子を産み、山へ入るという決まりができた。

 現在、女たちは月ごとに連れ立って山へ行く。

 今月二十歳になったのは、リーシャ一人だった。

*   *   *

 二人の女が、村を出て山へ入って行った。村の人々は、ただ黙って、それを見送った。

「ねえ。…ねえ」

 村が木に遮られて見えなくなると、リーシャは同行人に声をかけた。彼女は道を知らないはずなのに、リーシャよりも先を行っていた。名も知らない女は、呼びかけに気づいているのかいないのか、黙って足を進める。

 リーシャは、小さく息を吐いて女の服を掴んだ。ようやく、歩みが止まる。

「こんなことを言っていいのかわからないけど、あなたは行かなくてもいいのよ。通りかかっただけなんだから、関係ないのよ。いくら、先月贄がなかったからって――みんな、怯えて正気を失っているとしか思えないわ」

「お前は?」 

「え」

 日除けか目隠しのように頭からかぶった布の下から、黒い切れ長の瞳がのぞく。思わず、リーシャはそれに見惚れた。

 白と黒の簡素な平服を着た男女が村を訪れたのは、十数日前のことだった。村人たちは、常になくもてなし、そして、今日。酔いつぶれた男は縛り上げられ、女は、こうして贄になろうとしている。正気でないというリーシャの言は、真っ当なものだった。

「お前はどうなんだ。贄にされて、逃げたいとは思わないのか?」

 リーシャが理解できなかったと思ったのか、女は補足した。

「…私は…平気よ。生まれたときから言われてきたことだもの。『お母さん』をちゃんと知らなくて、私の子供にもそういう思いをさせてしまうのが、残念と言えば残念だけどね」

「私も――母のことは知らないな」

 呟くように言って、女は再び歩き出した。

 それから大分歩いたが、その間、二人が話をすることはなかった。リーシャが、思っていた以上に大変な道のりに、息が上がってしまっていたのだ。女の方でも、自分から話し掛けることはなかった。

 一人きりであれば、怖くて、どこかで立ち止まったままどうもできずに泣き果ててしまったかもしれない。結果、村には竜神の災いがもたらされることになっただろう。竜神は、その月に幾人が二十歳になるのか、正確に知っているのだ。数が多い分にはかまわないだろうが、少なければ大変なことになる。

 そのため、村の女たちは、ろくに仕事もしないのが常だった。働くのは男たちの仕事だ。何かあって数が減れば、いくら事故であっても、竜神の不興を買うのは確実だった。

 ――家畜と同じなんだわ。

 いつの日か考えたそれは、多分間違っていないだろう。リーシャの村は、竜神の食料庫に過ぎないのだ、きっと。

「ここか。どうすればいいんだ? 突っ立ってればいいのか?」

 リーシャは、知らず知らずの間に唾を呑んだ。いよいよだ。

「私が。――竜神様。ロウウェイの娘のリーシャです、それと、旅の方で…」

「ラオ」

「ラオです。どうか、お目通りを」

 そう言って、髪に挿した花飾りを、沼へ浮かべる。程なく、水面がざわめき、波立ち、顔だけで大人ほどはあろうかという竜が姿を現した。

 にまりと、 [ わら ] った気がした。

今月 [ コツキ ] は二人か。さあ、我のもとへ来よ」

 人よりもずっと低い声に、リーシャの足が、意思とは関係なく動いた。だが、湖面に降り立とうとしたリーシャを、白いものが遮った。ラオの、白い、袖の広がった服に包まれた腕だった。

李天塔 [ リテントウ ] の名に於いて命ず。 [ きた ] れ」

 紅をひいた紅い口でそう言うと、リーシャを横抱きに抱き、後方へ跳びすさる。何が起きているかわからないらしく、身動き一つしていない竜に向かって、リーシャの村の方角から、一振りの剣が飛んできた。竜の、赤い右目に付き刺さる。

 咆哮が上がった。

 と同時に、ラオの背後の茂みから人影が飛び出してくる。

「ラオッ、俺を殺すつもりか!?」

「遅いのが悪い。大体、殺したって死にゃーしねーだろが、お前は。俺の雷受けて平然としてた奴に死ぬとか言われても現実味ないね、全然」

「あほっ、死にかけたわ、あれで!」

「でも生きてんじゃん」

 地面に下ろされたことで頭上で交わされることになった会話に、リーシャは唖然としていた。何者だ、この人たちは。確か、この黒い服の長身の男は…ラオの連れで、今は酔いつぶれているはずだが。いやそれ以前に、「男女」ではなかったのか。頭の布を取り去ったラオは、少年にしか見えなかった。

 男は、まるで茂みに突っ込んだかのように、乱れた格好と髪型で、あちこちに緑の葉っぱをくっつけていた。

「ま、そんなことどーでもいいからさ」

「そんなこと?! 剣ごと無理やり引っ張ってこられたんだぞ、俺は! この山ん中、道も木も関係なく!」

「だから、遅いのが悪いんだって。こだわんなよ」

「こだわるわ!」

「あー、はいはい。わかったから、この人頼むな」

 恨みが増しそうな男を振り切って、ラオは沼に駆けて行った。その先には、隻眼になって暴れ狂う竜がいる。

「ラオさん!」

「大丈夫、見てなって。ところであんた、リーシャって人か?」

「ええ…?」

 見上げると、男はいたずらを仕掛けるような瞳をしていた。

「いいダンナ持ったな」

「え?」

*   *   *

 痛みにか怒りにか、暴れ狂う竜。その頭にひと跳びで乗ると、ラオは無造作に剣を引き抜いた。新たに、血が噴き出す。

「あーあー、俺の唯一の宝物が」

 深刻ぶって溜息をつく。竜がラオを振り落とそうとするかのように頭を強く振ると、平然ととんぼ返りで竜の右側に着地した。

「竜ってゆーから正直ヤバイと思ってたけど、蛟とはね。楽勝じゃん。欲張りすぎるからこーゆーことになんだぜ?」

「…おのれ…っ」

「この世界は弱肉強食で、人が獣を食うならあんたたちが人を食うのも正当だってのがあんたたちの理論だよな? だったら、より強い奴に負けるのも、仕方のないことだよな」

 そして、竜が次に何かをするよりも早く、ラオは剣を [ ] いだ。

 竜の大きな首が落ち、沼に沈む。沼は、流れる血で赤く染まっていった。

清天子 [ セイテンシ ] の名に於いて命ず。浄化せよ。急々如律令」

 ラオの声に応じて、見る間に沼の水が澄んでいく。リーシャは、それを信じられない思いで見ていた。男がもう動いてもいいというのでラオの元に駆け寄ろうとして、足を止める。沼の上に、何か半透明の――水の像のようなものが浮かんでいた。

「清天子。天呼 [ テンコ ] に言って、俺の罪状に一筆加えておいてくれ。すまないな、おまえの眷属を」

「いや…お前の言う通りだ。礼を言わねばならないくらいだ」

「そうか」

 リーシャに背を向けたラオの表情は見えなかった。だが何故か、苦笑しているような気がした。

 水の竜は、跡形もなく姿を消した。

「…ねえ。ラオさん、あなたは…何者なの?」

「ん? 何、言ってなかったのか、ヒラク」

「ああ。…忘れてた」

「使えねー」

 呆れた口調のラオを、ヒラクと呼ばれた男が小突く。子犬と大型犬がじゃれあっているかのようだ。どう言い合っても、仲が良いのが見て取れた。

 しばらくして、ラオがリーシャを見た。

「えーっと。…ま、詳しいことはレイランのばーさんに訊いてくれ。文句も礼も全部、ばーさんによろしく。俺たち、脅されてやっただけだから」

「脅す?」

「そ。酷いと思わねー? 俺ね、実は流浪の王子様でさ。親族に命狙われてんだよね。やんなきゃ、役所に突き出すって言うしさ」

 あっさりと言ったラオだが、リーシャは対応に困った。冗談なのか本当なのかがわからない。

 ラオは、そんなリーシャを気にした様子もなく、つり気味の瞳をきらめかせて、ヒラクを手招きした。そして、素直に近づいてきたヒラクの、ラオの頭ほどの位置にある頬に、肩を掴んでかがませ、口付ける。後には、くっきりと紅が唇の形に残された。

「あはははは、だっせー! それ、一人で酒かっくらってた罰な!」

 大笑いして、自分の唇を無造作に拭い、紅を落とす。そして笑いながら、山の奥に消えて行った。

「あ、あの…ヒラク、さん…大丈夫…?」

「ラオッッッ!!」

 激怒して後を追うヒラクを、リーシャは呆然と見送った。

「何、だったのかしら…あの人たち…」

「リーシャ!」

 呟く声に、もう二度と聞くことなどないと思っていた声が重なる。

「…オルフェイ…」

 リーシャを助けようと思ったのか、使えもしない剣を手に、自分の恋人、否、夫が駆けつけたのを知って、リーシャは涙が溢れるのを止められなかった。



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