類稀な日常

「おはようごさいまーす・・・」

 呟くように言いながら、加賀谷亘[かがやのぼる]は部室(と呼んでいるが、実は物置を無断拝借)の戸を押し開けた。毎日出入りしているにもかかわらず埃っぽい空気が、一気に押し寄せてくる。

 思わず、亘は顔をしかめた。

 そして、廃棄寸前のロッカーから置きっぱなしの教科書を取ろうとして、大きくのけぞった。入ったときは、部屋の中央に置かれた机に隠れて気付かなかったのだが、どこからか拾ってきた皮張りのソファーで眠っている人がいた。

 長い癖のない髪に、穏やかな印象を受ける顔つき。いつもは真っ直ぐに伸ばされている背筋が、さすがにソファーの上で丸まっている。

 この大学の二年生、亘の一年先輩に当たる狭霧亜麻音[さぎりあまね]だった。

「び、びっくりした・・・・」

 飛び出そうになった心臓をなだめるように胸に手を当てて、小さく呟いた。誰もいないと思っていたので、不意打ちを喰らった感がある。しかしそのせいだけでなく、亘はじっとりと汗をかいた。

 まずいのだ。

 今、非人道的活動同好会「万[よろず]」のメンバーに出会うのは、非常にまずい。例えそれが、比較的温和で常識的な亜麻音であっても、まずいものはまずい。

 思わず回れ右をしそうになったが、そうすると教科書を諦めることになる。次の時間は、受講人数が少ない上に厳しい先生なのだ。教科書でも忘れようものなら、どんな嫌味と宿題が出現するか。

 平和に眠る亜麻音を確認してから、息を殺して、そっと手を伸ばす。ゆっくりゆっくりと音を立てないように気を付けながら、目的の教科書を掴み取った亘は、大きく安堵の溜息をついた。

 が、次の瞬間には、教科書を腕に抱えたままで硬直してしまった。

「半人前、話がある」

 肩越しに耳元で囁かれた声は、三年生の上条悠夜[かみじょうゆうや]のものだった。ちなみに、悠夜が亘を呼ぶ「半人前」という呼称は、実は「百歩譲って半人前」という短文の前半が省略されている。

 硬直したままの亘は、心底、教科書を置きっぱなしにしていた自分を呪ったのだった。

◆  ◇  ◆


『そっちに向かったわ』

「ラジャ」

 上着の襟[えり]に向かって喋る男を、そう多くはいない通り掛かりの人々がやや避けるようにして移動していくが、本人はそのことには全く気付いていなかった。

 代わりに、男――川崎大地[かわさきだいち]の傍らに立つ桐生和斗[きりゅうかずと]が、額に手を当ててわざとらしい溜息をつく。

 長い髪を括っている和斗といかにも体育会系(非マッチョ)な大地の組み合わせは、十センチ近くもある身長差のせいで、「保護者(兄)と腕白盛りのスポーツ少年(弟)」のようになっていた。

 しかし実際には大地の方が一年早く生まれていて、大地自身も174センチと低くはないことから、「少年」というには多少無理があった。

 先に歩き出してしまった大地を追って、大股で駆け寄る和斗。

「大地さん」

「しっ、黙って」

 前を見据えたまま慌てて和斗の口を手で覆って塞いだのは、いくらなんでもテレビドラマの見過ぎだ。そのくらい微笑ましい稚気ではあるが、やられた方はたまらない。身長差のせいで無理やり頭を下げられているから、尚更だ。

 手を引き剥がしたいところだが、見かけ通りに体力もある大地なので、そうも行かない。かくなる上は――

「桐生、川崎殿。何をしておる?」

 男としては高めの声。ややたれ気味の目が、二人を見詰めていた。

 大地の手が離れて、和斗はほっと息を吐いた。大地がわずかに咎めるような視線を向けてきたが、敢えて無視する。

 綾小路神楽[あやのこうじかぐら]が、そんな二人の様子を見て首を傾げる。手元には、いつも通りに扇子があった。

「先刻から、二人で何をしておったのだ?」

「さっきって・・・いつから気付いてたんだ?!」

「階段の辺りからだが」

 チクショウ、と言って地面に膝をついた大地を、通行人たちが、今度ははっきりと避けて通って行く。神楽をつけ始めたのは、階段からだ。和斗が、力なく笑う。神楽一人が不思議そうな表情をしている。

 何度か拳を地面に叩きつけていた大地は、唐突に上着の襟を掴むと、自棄になったような声を出した。

「こちら、G-1[ジーワン]。作戦失敗」

『了解。・・・だらしないわねえ、大地』

「じゃあ代わってくれよ。俺が指令出すから」

「やりたいって言ったのあんたでしょ」

 するりと、柱の陰からがっしりとした体格の髪の長い女――に見える男――が現われた。片手には、掌に隠れる大きさの黒いトランシーバーがある。   

「部長殿?」

 驚いた声で呟く神楽には構わず、涼風花音[すずかぜかのん]は大地となにやら言い合いを始めてしまった。軽い口喧嘩のようでも、新たな計画を練っているようでもある。

「一体何がどうなっておるのだ?」

 大地と花音から聞くことは諦めたらしい神楽は、和斗を見上げて尋ねた。大地よりも背が低いため、大変そうだ。

 和斗は、苦笑した。

「花音さんが小さいときに使ってたおもちゃのトランシーバー見つけたらしくて、それを知り合いに改造してもらって、そうしたら使ってみたくなったらしいよ。ちなみにオレ、お前より先に尾行された」

「尾行・・・であったのか、あれは?」

「・・・らしい」

 ふっと、溜息をついた二人だった。

◆  ◇  ◆


 身長、髪形、服装それに性格もてんでばらばらな六人に囲まれて、亘は、思わず引きつった笑みを浮かべた。

「アンタはその日一日、学長に張りついてたのね?」

「いえ、一日中じゃなくて、帰宅してから寝るまでです」

 十分にハスキーな女で通る花音の声に、表情に反してきっぱりと返す。

 時刻は、午前十一時。大学内はまだ二時限目の真っ最中だが、集まっている「万」メンバーの半分ほどは空き時間で、残る半分ほどは自主休講だった。

「講義が終わってから自宅前で張ってて、帰宅確認後観察、確認。写真と報告書も出しました。・・・何か問題が?」

 花音は、きっちりと化粧をした顔の眉間にしわを寄せた。さも重大発表をするように声をひそめる。

「学長の隠し金庫の鍵がなくなったらしいわ。そこで、疑われてるのがアンタってわけ」

「・・・僕?」

 引きつった笑いが打ち消されて、亘の顔は、呆気にとられた間抜けな表情になった。

 一限前に部室に教科書を取りに行って、そこを悠夜に取り押さえられて。泣き落とし(無効)の上に逃走を図り、どうにか一限は出席したが、終了と同時にあっさりと捕獲されてしまった。

 しかもその間に、恐ろしいことに全員が集合していたのだった。

 ・・・なんでも、一限の間に「遊んで」いた花音、大地、和斗、神楽の四人が部室に荷物を置きに来て話をかぎつけたらしい。いっそ、一限を無駄にしておけば良かったか、と軽く悔やんだ亘であった。

 悠夜は、特に事を大きくするつもりはなかったらしい。ところが、こうなったおかげで、未だ亘は何が起こったか知らなかったのだ。

「学長のかつら疑惑に関する報告は、無事に新聞部に売った。新聞部はそれを元に、予定通り記事を書いたらしい。だが、発行直前に見咎められた。よりにもよって学長本人にだ」

「そして意気地無しにも、情報ソースを明かしちゃったらしいんですよね。まったく、報道者の精神も何も持ち合わせてない人たちですよね」

 淡々と説明する悠夜に、亜麻音がふんわりとした声で続ける。

「・・・それで、僕が疑われてるんですか?」

 たった一人、一年生の亘は、今や染み付いた中途半端な敬語で尋ねた。少し頭がくらくらして、額に手をやる。

「予定よ。きっと疑われるんじゃないか、というところ」

「俺たちは、新聞部のように中途半端な仕事はしないからな。学長から問い合わせは来たが、誰が調べたかは言っていない。・・・そこ、遊ぶな」

 話に飽きて、改良番トランシーバーをいじっていた大地が、びくりと反応し、いたずらが見つかった子供のような表情をした。ちなみに、その隣では神楽が微動だにせず居眠りをしている。

「遊ぶなら離れたところでやっていろ。気が散る」

 大人しく座を離れた大地を、亘は溜息と共に見送った。

 亘をこのサークルに引っ張り込んだ本人だというのに、この無責任さ。悪い人ではないし、場合によっては多いに頼れるのだが、今は少し、恨めしく思える。

 亘がそんなことを考えていると、「あれー?」と和斗が声を上げた。

「なんでかつらと金庫の鍵が関係あるんだよ? っていうかそれ以前に、よく隠し金庫の鍵がなくなったなんて素直に言ってきましたね?」   

 ふ、と笑った悠夜に、女性(?)陣以外の男たちは、少し身を引いた。絶対、何かやっている。

 悠夜は、それには触れずに説明を加えた。

「学長は、かつらに鍵を隠していたんだそうだ。それが、丁度この半人前が張りついていた日にかつらごとどこかに消えたらしい」

「・・・そんなとこに隠すなよ」

「え、てことは学長今、ハゲ全開?」

 和斗の呟きを打ち消した大地の大声に、一同が思わず噴き出す。

 その拍子に、亘のアタマを一つの映像がよぎった。

「あ!」

 電気をつけたまま布団を被る学長。無用心にも、窓は開け放たれていた。ふわりと風が吹き込み――

「下。落ちたんだ。多分、ベッドとかチェストとかの下」

 意気込んで立ち上がった亘は、意味もなく手を振りかざして言った。

 すぐに悠夜と亜麻音が納得顔になり、和斗は呆れ顔、花音と大地はいささか不満そうだった。

「なんだ、そんなオチなの?」

 もっと色々あると思ったのに、つまらない。

 そんな部長の不満は放置して、亜麻音と悠夜は、早速今後に向けてのことを話し合っている。

「それで、いくら貰うんですか?」

「新聞部に売った以上の値はつけるとして――」

「って、売るんですか!? それくらい教えてあげればいいんじゃないですか!?」

 常識的な発言に、まだ眠っている神楽を除く全員が、訝しげな視線を向けた。眼が語っている。曰く、何を言ってるんだこいつは。

 金を取れる可能性があれば逃がさない、それが「万」の大原則だ。そのためなら、多少あくどかろうが道徳あるいは人倫に反していようが、気にすることはない。ましてや今回は、れっきとした情報提供だ。

「それならお前は要らないのか、半人前?」

「・・・・・・要ります」

 悔しいながらも、何かと金はいる。それに今回、活躍したのは亘なのだ。もらわないというのは惜しすぎる。

「それじゃあ一段落ついたことですし、お茶でも淹れましょうか?」

「あ・・・・! 僕、その、次の時間の予習が・・・」

 突然の亘の反応に、一同は不思議そうな目を向けた。が、亘が慌てて部室を出るよりも先に、大地がひらめいて戸棚に走った。

 案の定、常に買い置いてあるはずの菓子がまったくなかった。

「確か、今週の当番は」

「亘君、ですよね?」

 ゆらり、と何かが背後に立ち上って見える(気がする)。

 亘は、何で菓子がないだけでこの人たちはこんなに凶暴になるんだーっ、と心中でだけ叫んで、必死に平謝りするのだった。・・・だから、今はまだ顔を合わせたくなかったのに・・・。 

 そろそろ、昼時のざわめきが聞こえて来ようかという時刻だった。

「万」メンバァ一覧







左上から順に綾小路神楽、上条悠夜、狭霧亜麻音、桐生和斗
左下から順に、涼風花音、加賀谷亘、川崎大地



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